先日、ちょっとチャレンジングなヨガクラスに参加してくれた練習仲間が自身のブログに感想を書いてくれて、そのなかに「自らチャレンジしようとする勇気」「色んな人達と一緒に汗かいて練習する時間というのは本当に楽しい」というフレーズがありました。
こういう初心に戻れるような気持ちは、わたしも定期的に補充しにいくようにしています。
できない → やらない → やめる という結論にするための理由はすぐみつかるから、だからこそ、その逆の方向へ自分を導いてくれる場や人の存在がありがたい。併走仲間の存在もありがたい。
今年はハノイへ行ったり伊豆へ行ったり、インドでわたしが黙々と練習をしていた場所を知っている人に会いに行くことで、ある種の気持ちを補充しました。
練習菌をもらいにいく
感じとしては、そんな感じ。
わたしはここ2年くらいで、自分のなかにある所属欲求という原始的な欲求を、やっと見つめられるようになってきています。これは見るのがとてもこわい種類の自我で、すごく苦手な感情だったのですが、何人かの友人がこの心のフタを開けるきっかけをくれました。
これまでわたしは、ひとつのことに意識を傾けるためには、友人知人と疎遠になることは当然。失って当然。そこに執着をする自分はあつかましいと考えていました。でもわたしには、さみしさがあったのです。確実に。
それが、いろいろな方向から少しずつ溶けてきました。湯煎のように、ゆっくりと。
人生はこんなふうに、心を凍らせたり溶かしたりのくりかえしなのでしょうか。以前のわたしは、「くりかえし」であることを知りませんでした。
そしてそれを経て、あらためて練習で会える人に対して「アナタ、生キテタ。ワタシ、生キテタ」というような、そんな原始的なよろこびを感じるようになりました。
冒頭の彼女とは偶然外国の空港で再会したり、もっとインパクトのある思い出もあったのだけど、
一緒にいると
いっしょに汗した。くたびれた。スカッとした。
これだけがひたすら、印象として浮きあがってくる。一緒に身体のメモリに刻んだものが残っているかのよう。
これが白米のようにどっしりあって、そのうえに「あのとき、納豆をのっけた」とか「カクテキをのっけた」がある。でもそういうおかずイベントの味の記憶は薄れていく。
アナタ、生キテタ。ワタシ、生キテタ。
ガンバッタ。イテテテテ。
人生にイベントが多かった頃は、そのつど鮮やかに彩られていたこともあったけれど、もういろいろ食べ飽きてしまったのでしょうか(笑)。
でもこれ、白米だってこれから先、まだまだ楽しみがありますよ。おかゆ、雑炊、リゾット、ビリヤニ… 土台そのものへの加熱と水分量で広がりがあります。
それもやり尽くしてほんとうに飽きたら、霞を食べるようになるのかな。
これは、今年伊豆へ行ったときの写真
冒頭の友人のクラスを受けに行きました。(左の後・水色のマット)
「ずーっとヨガの練習生として楽しく学んでいきたい」という彼女のブログのフレーズと、まったく同じ気持ちのわたしです。