この8年くらい、野口晴哉先生の本を読まないようにしていました。自分の経験を大切にしたくて。
わたしは身体の見かたをいったんヨガの視点に限定し、それまでなるほどと思う所の多さで読んでいた整体や均整法に関する本を読むのをやめていました。
ところがそのやめている間にハタ・ヨーガのさまざまな教典を読むようになって、ますますその視点の類似性に気づくことになりました。人間を背骨で観る。そして背骨の根っこに近い部分で性エネルギーも観る。身体と心を分けずに観る。
この本で言及されている多くの部分は、ヨーガの場合でいう下から3つまでのチャクラ。あらためて野口先生の本を読むと、この時代に(昭和47年頃)にこんなふうに語られるナチュロパシーはさぞ魅力的だっただろうと想像します。講演の書き起こしなので現代の感覚で読むとコンプライアンス的にびっくりするような発言もたくさんあるのだけど、おもしろい。
わたしは野口先生のこの考え方がとても好きです。
私は整体指導法として、相手がいても、いなくても、腰椎の一、二、三番、あるいは胸椎の十一番の処理で、それらの結びつきを無くします。結びつきは無くなるが、性そのものは無くならない。潜在欲求の元は種族保存ですから、性は性として、大勢のためにそのエネルギーが使えるような気力となってゆくことが望ましいのです。
大勢のために役立とう、種族のために役立とうとする気力が、個人的な怯えと結びつくと、妙になるのです。だからといって、どんどん消耗させ、それをなくしてしまえば、全く個人的に動く人しかいなくなってしまう。そうなったら寄附などいくら求めても、集まりはしません。性欲を体に残しておいて、満たしたまま、その関連を断ち切るのがいい。
(109ページ 眠る 胸鎖乳頭筋の操法 より)
胸鎖乳頭筋というのは原文のままです。「相手がいても、いなくても」は結婚していても、独身でもくらいのトーンで語られています。この本には90代の人からの回春操法リクエストは断ったという話や、明らかに暴力的すぎる人の話も出てくる。
そこまでの人の相手をしていながら、身体からのアプローチで「関連を断ち切る」方法を見つけ出そうとする。何度読んでも、これこそ平和への近道と感じます。
わたしはいま世間でさまざまな諍いの原因となるヘイト発言も、たぶん根本的にはこのエネルギーの自然な循環を目指すほうがよいのだろうなと思います。この本で「お喋り」についてのトピックがありました。
性はだいたい自動的に昇華されるもので、抑えているとお喋りになってみたり、行動が騒がしくなってみたり、人のことでもつい悪口を言い、言ったついでに喧嘩まで売ってしまうし、また買ってしまう。そのやり過ぎは性の不満です。
(92ページ 眠る 眠りにおける性の問題 より)
わたしがテレビとYoutubeを観るのが苦手なのは、これを見るのが苦手なのかもしれません。お喋りな感じがあふれてる。
この本は食事と睡眠を中心に生活上の不調と背骨の連動について書かれているのですが、以下の箇所はヨガでも以下と同じことを感じます。
眠りと頭皮、あるいは腸骨、胸部、尾骨、そういう処は一つの関連です。
(78ページ 眠る より)
よく眠くなるから、眼瞼が下垂するといいますが、整体の観察によると、腰椎の二番が弛んできて、瞼が重くなるから眠くなるのだと、解釈する方が本当だと思います。
(192ページ 食べる 性と食べもの より)
別のページで性と腰椎について分解して語られているなかで、腰椎二番は分泌度だと話されているのですが、頭皮が弛むと涙液が増えるのも関係しているのかな。
冒頭にも書きましたが、エネルギーの出どころや流れ方を背骨で観て、気温と湿度からの影響を体液のバランスで観る。日本にもずっとこういうことを唱えている人はいる。
以下なんて、ほんとうにシンプル。
本当は風邪を引いたら、引いているときに、ただ水をどんどん飲めばそれでいいのです。
(264ページ 乾く 水の飲み方 より)
他の箇所で、「身体の五分の四が水ですから」と語られていて、おっと6割どころじゃないと踏んでいるのね! と思いながら読みました。
昔の本なのでいまの医学の常識からはズレたように見えることも語られているけれど、腰椎とエネルギーを身心の連携で観るという点において、頭が混乱するくらいヨガと似ていておもしろいです。
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題字がとてもすてきな本です。