うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

そのままの自分でリラックスするヨガニードラ


わたしは昼間に行うヨガクラスでは、なるべく「ヨガニードラ」(寝たまま行う瞑想の練習)を入れるようにしています。以前「寝たまんまヨガ」というアプリで出ているものを紹介したことのある、あれです。
夜のクラスでヨガニードラ行わないのは、夜の睡眠分を食ってしまうため。夜のクラスでは太ももを多く使うメニューにし、記憶を捕まえるエネルギーを削ぎ落とすような、そいういうアプローチで構成しています。(参考:太ももと記憶のこと



 睡眠と排便



わたしがヨガクラスを組み立てるとき、わりとわかりやすい効用として狙うところがあるのだとしたら、この二つ。排便については「便とメンタル」というのを以前書きました。
睡眠については書くのがすごくむずかしいのでヨガクラスの前に話すことが多いのですが、わたしはヨガニードラへ至る流れも含めて



 心を休める



ことを考えています。
肉袋(身体)も、心の器(感情の入れもの)も休んだ状態で、意識だけがある。そういう安らぎの状態。
意識はあっても記憶と結びつかなければ、感情に至る前の「なんだろうこれ」という状態で流れていきます。そのまま放っておけば、捕まえておくことはできません。
「なんだろうこれ」を自身の記憶と結びつけるエネルギーが残らないくらい身体を動かしたり日光に当たったりすると、そのあとにリラックス状態へ移行しやすくなる。経験から、そういう方法が安らぎへの近道と感じています。



大自然の中へ行っても、帰ってから「ふぅ〜我が家がいちばん」なんてつぶやいてしまう、「我が身体がいちばん」みたいな安らぎって、ありますよね。
家庭内(=身体内)にある「不愉快さ」は、そらぁないにこしたことはない。でも生活が回っているかぎり=体内に循環がある限り、発生してしまう。わたしは「不愉快さをつかまえるエネルギーを削ぎ落とす」というからくりを、ヨガを始めるまでは「運動でスカッとする」という言いかたでしか知りませんでした。
でも「スカッとする」の傾向を知ってから、「ヨガすごいなー。インド人すごいなー」と思うようになりました。


不愉快さをつかまえるエネルギーを削ぎ落とすことで得た安らぎの感覚は、そのあともしばらく続きます。
ヨガの練習のあとは、なぜかキャッチ・セールスの人に話しかけられても「お仕事大変ですな」「この人はこの人の所属する世界のルールと循環の中に存在するのだなぁ…」という気持ちになる。普段は "ウザい" と思ってしまう街角での声がけも、マイルドにスルーできる。颯爽とやれている。
なんというか



 スカッとさわやか



なのです。
誰のことも悪者にせず、自分の記憶のなかで事実を書き換えることもせず、さわやかになれる。
「そのままの自分でリラックスすること」って、なかなか意味を理解するのに時間がかかるのですが、シンプルなリラックスほど、そこへたどり着くまでの段取りは周到なほうがいい。



 「リラックスしましょう」と言われて、
 そんなにすぐ、リラックスできるかーい!



こういう、ヨガを始めたころのシンプルな問いやツッコミを、わたしはずっと大切にしています。