うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

自分の気持ちとヨガエキスを整理した

ヨガクラスを開催しなくなってから2か月の間に、わたし自身がこれまでの経験から「ヨガの効用のこの範囲から離れたくない」と思う要素をあらためて言語化してみました。
わたしはこれから1か月半ほど、ヨーガ哲学を教わった先生(もうひとつのブログの「インド授業の小話」に登場する先生)によるプログラムに参加(講義・宿題・対話)するので、そこで影響を受けたり言語感覚が日本語から離れる前に、現在までの自分のヨガエキスを日本語で整理しておくことにしました。
わたしが自分で構成する練習の場で念頭に置いているのは、ヨガの効用のこんな連携です。

 


1)感覚が細かくなる。鋭くではなく、細かく。それは内面への細かさ。
2)1によって、ひとりのときに自分の中にたのしみを感じる瞬間が増える。
3)感覚を取り扱う練習のひとつとして「動かない練習」がある。
4)1と3によってゼロは「無」という状態が "ある" ととらえられるようになる。
5)くつろぎは「平穏」という状態が "ある" ととらえられるようになる。
6)くつろぎと高揚感は同じでないことを知る。
7)勝ち気や山っ気、怒りや反発ではない、反応ではないオリジナルのエネルギーを知る。
8)感情には記憶が含まれることを理解し、現実と妄想を分別できるようになる。
9)7と8によって現実に即した生きかたをデザインできるようになる。
10)家住者は家のことをよく知っている、というコンセプトを身体だけでなくあらゆる組織に置き換えられるようになる。

 


書き方はこれからも世界と自分の変化で変わっていくけれど、わたしがヨガによって考えを変えるきっかけを得たと思っているのは、社会の中で心身が正気であるための知恵。
その流れを逆引きするようにリストしていくと、上記のようになります。

 


先日友人と雑談をしていた時に「正気を保つのが最近のテーマ」と話したら「えええ保ってなかったの?」と言われたのだけど、保とうとしているから保てている、というのがわたしの普段の感覚です。(いつも正気に見えていたなら、とてもうれしい)

あらゆる種は発芽してはじめてその存在を知ることになるから、望まない方向に育つかもしれない種にうっかり栄養を与えないようにしなければいけない。わたしはそういう面で、いつもどこか自分を信じていません。
そのために、ヨガニードラや瞑想はやはり有効と感じています。

 


アーサナや呼吸法の練習については、身体に気を流すようでありながら実際は心に気を流そうとしているのだということが、違うタイプの困難を経験するたびに、年々身に染みるようになっています。上記9の「現実に即した生きかたをデザインできるようになる」というのは、その実感の延長にあるもの。局面に応じてエネルギーの使い方を取捨選択・再設計する気を保てているか、というのはわたしのなかでいつも危険視している要素です。

 


8の「感情には記憶が含まれることを理解し、現実と妄想を分別できるようになる」というのは、40代になってからあらためて言語化しました。年齢を重ねるというのはこういうことか…、というのがやっと少し見えてきました。年齢を重ねるほど時間を多く消費し、記憶の材料が増えていく。記憶の混乱による嫌悪なのか怠惰なのかの区別がつかない瞬間を見つけるたびに、このあたりまえの仕組みをよい方向へ寄せていくにはどうすればよいかを考えるようになりました。

 


わたしは視覚イメージを使ってヨガをポジティブな行為として広く伝えるのが得意ではありませんが、それでも言葉で伝わることはあって、これまでこのブログを通じて多くの人と出会うことができました。

そして現在のような状況で望むことは、同じ時代を生きながら意識の主体であろうとする人と、再会も含めて出会い続けたいということ。同じ人間の中身が更新され続けるから。
そのために、どうすればいいか。思わぬリセットの機会を得て、わたしがいま考えているのはこんなことです。

 

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