過去の失敗や失敗かもしれないと思っていることから創りあげる悪い妄想物語など、「うわあああっ」となるアレはどういうものかという話。
以前友人からのメールに「あのフラッシュバックのような記憶って、まだ整理しきれてないものなのかしら」と書いてあって、わたしもヨガを掘り下げて学んでいく前は、整理しきれない記憶を「自分の行いが悪いから」というようにオカルティックに紐付ける思考が忍び寄ってくることがありました。いまはそういう思考をしません。
フラッシュバック自体はまあ、あります。脳の機能だから。でも掴まえなくなりました。現実的によくない展開のバリエーションは想像しても、社会に法律が機能している前提であれば多くのことは現実的に対応できるものだろうし、そのうえで想像が追いつかなければ世間知らずであったということ。現実的に反省するしかありません。さまざまな展開のバリエーションを考えることは、わたしの場合仕事で役立つことが多く、むしろそれができないと仕事になりません。
そのうえで、「うわあああっ」となるアレの理解について、昔のインド人の考えかたはすごいなと思います。根本にある理解は以前書いた「ヨガで性格は治るか」と同じものになるのですが、わたしはいまはフラッシュバックを意識の状態の掛け合わせで起こるものと捉えています。
インド思想ではウパニシャッドなどの古い書物に、人の意識の状態を以下のように分けて説明するものがあります。
- 覚醒している
- 夢を見る眠り(svapna)
- 熟眠(susupti)
- 第四意識(turiya)純粋意識と解説されることもある
このような、4つの状態があるとされています。*1
「うわあああっ」となるアレは、覚醒中の日常のなかに夢を見る眠りの意識ライブラリにある紙芝居が一枚しゅっと差し込まれる、わたしはそんなふうに捉えます。チッ。隙を突かれた! というような。「今」に意識がグリップできていない瞬間に、漠然とした不安が、記憶ライブラリの「不安カテゴリ」の棚にある紙芝居の一コマをさっと掴んで差し込んでくる。
わたしは本を読んでいても映画を観ていても街を歩いていても「あれ、この状況はほかのなにかで見たな…」という(トランプ・ゲームの)神経衰弱をやっているときのようなことが起こるので、記憶のマッチングという機能自体は人生を楽しくしてくれるものと思っています。
集中できているときは、それが起こらない
これはヨガをするようになってから気がつた事ですが、ヨガに限らず小さな達成感や生きている実感が小さく継続して起こっているときは想像のマッチング機能があまり発動しません。ヨガニードラのときなどは、今にすら意識がグリップできてない。(言い訳? ^^)
なので「"今" に意識があること」という、そういう機能があることを覚えておくようにしています。集中というとギュッとしたボールのようなイメージだけど、もう少しささやかな、粒のような集中の連続。
覚えておくというのは、記憶したものを保持するというよりは、機能や法則の存在を信じ続ける。ヨガはベースにインドの心理学があって、わたしはそれをかなり頼りにしています。
12月になって年末っぽい会話を形式上してはいるけれど、今年はどうだったと思い出すことは、今はありません。"過去" のことを引っ張り出す気なんて起こる気配すらない、そういう無に近い安らぎの瞬間がないと、日々はやっていけない。
安らぎましょう。そして、そこから都度都度、よい流れへチューニングしていきましょう。
*1:第四意識を超えたもの「turiya atita」というのが出てくる教典もあるのですが、そんなに多く出てこないので、ひとまず4つ