うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

問題は、躁なんです 正常と異常のあいだ 春日武彦 著


まえに『「キモさ」の解剖室』という本を読んで、たしかにある微妙な心理を言語化しているのがたいへん気になり、この本を読んでみました。

わたしなりにそれを言葉にしてみると「ゲスな人格に支配されそうになるときの心理」という感じ。
文字通り、ゲス=下衆で、これはよく言う「わたしのなかで天使と悪魔がたたかってる」というのとは違う、一対一じゃない感じです。
この部分を読んで深くうなずきました。

<156ページ 頭の中の暴徒たち より>
 もしかするとこのような状態は、もともと本人の心に潜在していたさまざまな側面、さまざまな人格が一斉にシンクロして群集心理を生み出し、無責任な暴徒と化していることなのではないだろうか。だからこそ、普段なら決して行わないであろう「とんでもないこと」すら、いとも簡単に実行してしまう。理性や羞恥心がブレーキとして働かなくなる。
 個人の頭の中で群集心理が働き始め、その不均衡なありようが違和感に満ちた人間を作り上げているのではないか。不可解な事件を起こす新老人たちも、彼らの頭の中では正義を標榜する暴徒たちの怒号が響き渡っているということではないだろうか。
 そして人々が暴徒と化す契機となるのが危機的状況や世間に広がる不安感、現状への強い不満であることもまた、「頭の中の暴徒たち」の存在を裏付ける証拠となるであろう。

暴走老人について触れている部分ですが、自分自身に照らし合わせて「自分の中に群集心理が生まれる瞬間」と捉えると、感覚的にしっくりきます。




この本で語られる「躁」には、わたしが「ヴァータ病」と呼んでいるものが含まれていて、ヨーガやアーユルヴェーダの用語を少し知っている人には「頭が風のような状態、落ち着けない状態」といったらわかるでしょうか。
この本には激質も含めて、犯罪の事例がたくさん載っていました。わたしは自分の中に発現する「躁」を「ヴァータ的な躁」「ピッタ的な躁」に感じ分けると後者のほうが多く、それはとても怖い成分と自認しています。




わたしは仕事で「IT×メディア業界」の人と多く接してきたので、決してジェネレーション・ギャップだけではない、業界特有の「躁」もよくわかります。以下の箇所にも、大きくうなずきました。

<55ページ 奇人と病人のあいだ より>
われわれは躁病的要素を濃厚に持った人や、慢性の軽躁状態みたいな人をときたま目にする。新興の実業家や投資家、(自称)芸術家、プロデューサーとかマスコミ周辺の人、興行師や芸能界周辺あたりに彼らは棲息しがちのようで、談合体質などにも結構近いものがあるかもしれない。

わたしの感覚では「win-winで」のような表現を使う時点で躁な印象です。出版もアパレルもそういう躁っぽさが残っていて(知人比)、マーケットは縮小しているのにそのノリが継承されていくのは不思議だな、と思います。



<131ページ アイデア市長 より>
 おしなべて軽躁的な人は、ステレオタイプな感覚に凝り固まっている。ステレオタイプという前提がなければ、それをネタにおどけたりはしゃいだりはできないのだから。

「ヨガ=スピリチュアル」「IT=イノベーティブ」のように、お気に入りのイメージに寄せて駆け出していくのも、ステレオタイプにあたると思います。



<153ページ いびつな冗談 より>
 まったくのところ、躁には冗談めいた要素がともなう。ただし、洗練されたユーモアとはほど遠い。痛々しい冗談、泥臭く低劣な冗談、怒りや威嚇をほのめかす冗談、卑しい冗談、攻撃としての冗談、空疎な冗談 ── こうした精神の負の部分を反映した冗談ばかりがともなうのである。

これは「ピッタ的な躁」のほう。自分がやりがちなので背骨が冷えました。



<158ページ 躁が意味するもの より>
 まったくのところ、「躁」はきわめて人間臭い成分である。それは香水に似ている。成分が濃すぎると悪臭そのものとなる。微量ならば、そして時と場所を選べばきわめて魅力的な香りとして機能する。その香りは本人にとってはすぐに慣れが生じて分らなくなる。けれどもそれを嗅ぐ他人は、場違いな香り、自惚れに満ちた香り、いやにドラマティックな香りを押しつけられて戸惑わずにはいられない。息苦しささえ覚えさせられる。しかも香水には実用的な意味合いなどなく、教訓すらなく、ひたすら卑俗な欲望をほのめかす。
 ハッピーな躁があるいっぽう、苛立ちとグロテスクさとカリカチュア的なものに彩られた躁がある。躁はうんざりするほど下世話であると同時に、危うさを秘め、ときには文学的な素因をも併せ持つ。

夏目漱石の小説を読んでいると、たまにラップのようにしつこく語尾を刻む表現を見てわたしもひっぱられるのですが、これに該当しそう。




そして、精神科の医師みずからこの言い切りはすばらしい。

<181ページ 無人島の躁病男 より>
どんな精神症状を示した患者に対しても「本当のあなたは自尊心の低さや罪悪感や恥辱間に苦しんでおり、それを覆い隠して自分を護るべくあのような症状が出現するに至ったのですよ」と、低く重々しい声で囁きかければ、必ずや相手は納得してしまうだろうなと想像せずにいられない。
 少なくとも、誰かがわたしに向かって「本当のあなたは自尊心の低さや罪悪感や恥辱間に苦しんでおり、それを覆い隠して自分を護るべく、本業の傍らに次々と本を書き続けているのですよ」と告げたら、おそらく何も言い返せないままうな垂れてしまうことだろう。精神医療の胡散臭さは、このようなあまりにも「まことしやかな」言説が横行し過ぎることが一因であるに違いない。

いまは占いの人もスピリチュアル・ヒーラーの人もこんな調子で書くので、どこからがプロなのかわからない。



この著者の本は、正直でドスンときます。


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