うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

老子と暮らす ― 知恵と自由のシンプルライフ 加島祥造 著


もともと加島祥造さんが英米文学の翻訳をしていたということを知らなかったので、その言語観にまつわる発見が多かった一冊。
漢詩を英語で読んでその世界にハマったといういきさつが語られていて、すごくおもしろかった。前半で、「こころ」という言葉の表現についても語られています。
わたしもヨーガ周辺の書物を英語で読むようになってから、より深く入れるようになりました。たとえば同じ「因果」でも、「果」の部分は英文で読むと result ではなく effect であったりする場合もある。とくにサーンキヤ哲学はそうで、そういう機微に「おおっ」となる。内容がとてもヨーガ的な老子の詩にも、同じようなことが多々あるのでしょう。そういういきさつなどはいままで語られず、とにかく訳を中心に読んでいたので、この本はわたしにとって学びのステップとして、とても励みになる内容でした。

 出会いの瞬間には、法則なんてありえないんです。みんなが自分だけの出会いに招かれる以外にない。
 たとえば壮年期に、僕は白楽天白居易)を読んで、心を打たれなかった。ところが後になって、偶然に英語の訳で読んだとき、じつによくわかって嬉しかった。それはある程度、無意識の世界の深まりができたあとでの、出会いなのでした。
(84ページ 偶然からの画作 より)

違いがわかるタイミングと、違いがわかりたくないタイミングと、違いが自然に入ってきて自分の言葉に置き換えられるタイミングがある。後者ほど無意識に近いように思います。



 自分ひとりで密かに喜べるのは、その人が自分の深い能力を見つけたときです。逆に自分のなかにある深い能力が出てきたら、ひとりで密かに喜べるようになる。同じことです。
 これが "富" の中身だと、いまの僕は思います。
(179ページ ひとり密かに喜ぶ より)

わたしのオタクっぽい喜びとはぜんぜん違う境地なんだろうなぁ。



知識を学ぼうとするものは
毎日何かを知り、覚えこもうとする。
タオを求める人は、
毎日何かを忘れ去ろうとする。
何かを自分の頭から捨て、
さらに捨ててゆくとき、
はじめて「無為」が生じる。

「無為」とは、何もしないことじゃなくて、
知識を体の中に消化した人が、
何に対しても応じられるベストな状態のことなんだ。
世間のことも、まわりのことも、
なるがままにさせておき、
黙って、見ていられる人になる。
そのほうがうまくいく、という計算さえ持たずにね。
(『タオ ─ 老子』第四十八章)
(206ページ もうひとつの無為 より)

ほかの詩も読みたい方は、この本がおすすめです。



 道(タオ)エナジーは不滅であり、しかもつねに動いている。だからヒア・ナウとは、「過去から来て今に至っている動き」と「これから先へいく動き」との接点、という意味だと思えばいい。
「いつも動いていく存在」「瞬時も休まない here-now」「大きな動きのエナジーを含んだ存在」
 こんなことを言っても、抽象的に思われるかもしれません。しかし、これが自分のなかに潜んでいると実感するのは、具体的なことです。
 たとえば "火事場の馬鹿力" というぐらい、瞬時に発揮されるようなすごいエナジーがわれわれのなかに隠されているわけですね。瞬発力といってもいい。これは、激しいものであると同時に、非常に柔らかいものです。みんながスポーツを楽しむのは、その瞬間を味わいたいからです。
(242ページ いま、ここ より)

わたしは睡眠とエネルギーは溜めることができない感覚でいるのですが、こういう具体的な意識ってとても重要ですね。「激しいものであると同時に、非常に柔らかい」というのは不思議な表現ですが、わかる気がする。


少し疲れているときに読みました。そうでもないときに読むと、ここまで物質社会から離れたコメントが続くのは少しきついなぁと、そういう気分になります。タオの教え自体は好きですが、わたしはまだ著者さんよりもうんと若く、都会を否定するとしんどくなる生活をしているので、タオを社会に引き寄せた解釈が苦手なのかもしれません。