うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

「ストーカー」は何を考えているか 小早川明子 著


夜のラジオで耳にした著者・小早川さんの語り口がたいへん鋭く気になり、読みました。(ラジオの内容はこちらで読めます
この本は「ストーカー、こわい!」という防御の喚起というよりも「自分もなにかのタイミンが重なれば、ストーカーと同じことをする種を持っている」と認識できる本で、「うわぁ、この感じ、よく言語化するなぁ」という示唆だらけ。
以下の箇所を読んで、自分にそんなところはないと言える人なんて、いるかしら。

 自分の気持ちに気づくというのは実は怖いことで、気づきたくないがために心理系の本ばかり読む人は大勢います。なぜなら、解釈の世界にいる限りは安全だからです。
 しかし、気づきとは解釈ではなく、理解することです。つまり本当は「問い」を解くことではなく、「問い」を理解することが解決なのです。
(170ページ ともに特殊解の鍵を探す より)

「解釈の世界にいる限りは安全」とは、ずばっと斬ってくれたものです。



この本を読むと、ストーキング(行為)と依存(心理)と妄信(背景)の境界があいまいであることがよくわかります。

特に加害者は、「世間並みに成功していない自分など、本来の自分ではない」と考えます。「成功しそうにない」という焦り、「成功しているのに」という不満や疑念が抑えられなくなると自暴自棄になるのです。
 自分が「成長」することに対しては関心も意欲もない。「成功」への露骨なこだわりがあるだけで、しかもその成功とは非常に個人的なもので、仕事やお金、恋愛や結婚はあくまで「自分が世間並みになる」、「ほめられる」ための手段としてしか考えられません。
(17ページ 急反転する愛憎 より)

ヨガをしていると【「成功」への露骨なこだわり】と【常識的な向上心】の境界を見る機会があります。こういう心理状態というのは、そんなに珍しいものではないとも感じます。この部分を読みながら【自分が「成長」することに対しては関心も意欲もない】という問題の根の先までズバッと見ているところに、ほんとよく見てるな…と唸りました。



以下のような状態も、「自分には関係のないこと」なんて言えない。

自分の過去に強い不満がある人は加害者にもなりやすく、自らを憎む熱を帯びて、カッとなって暴力的になりやすいのです。
(52ページ 自分を嫌いか、好きか より) 



誰でも、誇り、友情や信頼などを失って途方に暮れている時、ふと目の前に橋が渡されると、簡単に彼岸に渡ってしまうことがあります。
(79ページ 依存症とストーキング病 より)



「信じている」と口に出すのは、多くの場合、不信感がある時です。「信じていい?」と聞くのはすでに信じていない証拠です。
(中略)
 ストーカーはよく、「信頼関係を壊したのは相手だから、信頼関係を取り戻す努力をしろ」と主張しますが、信じるも信じないも、相手の言動に対する自分の心理的反応ですから、信じられなくなったという結果も、自分で責任をとるしかないのです。
(69ページ 「愛してる」と「信じていい?」の落とし穴 より)



「過覚醒」とはひどく敏感であるという意味です。ストーカーというのは、「俺を馬鹿にしている言動はないか」「私を裏切っている言動はないか」と、頭の中で常に検索エンジンをかけ続けているかのようです。率先して自分にとって不快な事象を探し、攻撃の種を拾うことに余念がないのです。
(118ページ 攻撃行動の因果関係 より)



 多くのコンプレックスは過去と結びついていますが、それを気にし続ける心理は、今は自転車に乗れるのに、友だちよりその時期が遅かったのを恥じ続けているようなものです。過去は過去として現在から去ってもらうか、大事に棚上げしておいて時々覗く程度にしないと、人は前に進めないのです。
(180ページ 呼吸を合わせる、常識を言い放つ より)

「過覚醒」のところは、まえに「ヨガが上達して性質が濃く出る時期の話」というのを書いたことがあって、これは2011年に書いたのですが現在もアクセスの多いトピックです。常に自身が攻略したものを検索し続けるような状態に「体力」が加わることの怖さについて書たのですが、思い当たる人が多いのでしょう。それにしても「検索し続けるような状態」というのは、なんてわかりやすい表現。最後の引用の「過去は大事に棚上げしておいて時々覗く程度に」も、沁みます。



以下は、以前わたしが経験から「わかる」と思う箇所です。

 本心を言う時は、常に自分を主語にすれば露骨にはなりません。相手が「お前は最低の女だ」などと越境してきたら、「私は今の言葉が不快です」、あるいは「私はその言葉が辛かったです」とレスポンスし、どうしても相手のことを言いたいなら、「私は、あなたが××だと想像します」と、自分の考えであることを明確にして、自ら責任を負った発言をすべきです。このようにして自分と他人の境界線をいつも意識して自分の領域内の話をすることが距離の取り方であり、マナーだと私は思います。
(27ページ DNA鑑定で解けたこだわり より)



気をつけなくてはいけないのは、一度、警告や被害届など刑事問題に対応のステージを上げた場合、可逆的対応をしてはならない、ということです。警告・逮捕・釈放後は当事者同士はもちろん、関係者が同席しても直に会ってはなりません。加害者は、あたかも自分が許されたかのような勘違いをする可能性があります。
(109ページ 心理レベルでの危険度 より)

常に自分を主語にするというのは、書き換えの余地を与えない文章の組み立て方ということですが、これはいろいろな人がなにげなく書く文章を見ている限り、とても難易度が高いと感じます。可逆的対応についても本当に上記の引用のとおりと思うのですが、「許された」が「やはり必要とされている」というふうにすぐ転化する思考をする人もいます。
これはウェブサービスの同業者とたまにする話ですが、昨今は「お知らせメール」が「招待メール」に脳内変換されてしまう人がいて、これはFacebookの雑な翻訳のせいじゃないかしら(ものすごく待たれている、誘われている、会いたがられていると感じさせる翻訳になっている)とも思ったり。SNS上の機能の上で、感情の主語がとこかを認識する感覚を麻痺させるような日本語の使い方が増えている。なのでこの本の上記で指摘されていることは、どんどん難しくなるだろうと思います。
かつてのmixiの「足あと」を、うまいずるい日本語だなと思ったものですが、目的は「監視」か「物色」です。



以下は、日常的に考えてもむずかしい、ストーカーへの対応の考えかた。

感情は、所有者である自分自身に処理する責任があることを徹底理解させる。相手に感情処理の責任を持たせようとする立場から降りるのを待つ。
(163ページ 非武装地帯、「閾」として/著者が加害者に向き合う手順の8)

お詫び会見で「誤解を与えるような表現があったことをお詫びします」という常用フレーズがあったり、主語のおかしい紋切り型表現から禁止していかないと、感情の主語を失うメンタルになる状況は減らないと思うのだけど、あまりこういう話ってされない。



以下は、数字の見かたについてハッとしました。

兵庫県警では届出のない110番通報などで認知した男女間トラブルでも、「男女もめごと事案」として、ストーカー事案と同等の扱い(総合相談管理システムへの登録、情報の一括管理)をし、迅速な対応をとっているといいます。同県警は警告件数で全国トップですが、こうした取り組みが全国的なものになればと思います。
(200ページ 警察の現場力 より)

件数が多い=ストーカー被害が多い、ではないんですよね。閾値を下げれば数は上がるのがあたりまえなので、数字は算出方法もしっかり見なくては。


恋愛をしない人が増えたらストーカーが減るかというとそういうものでもない気がするし、ほかの対象に変わるだけではないかな。執着する対象の数をふやして散らすのもひとつの方法だけど、わたしは自分の感情は自分のものだという認識の教育を、かなり幼少でやってたほうがいいような気がしています。自分もそういう教育を受けたかったと思うので。
腕力の関係で襲われたら不利なのが女性だからニュースになりやすいけど、実際はストーカーの女性も多いことが、この本を読むとわかります。
この本を読みながら、昔ストーカーの行動や発言をネタにしていた明石家さんま(「さんちゃん、寒い」というコント)や、「恥」という短編を書いた太宰治はすごいな…、なんてことをふと思いました。


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