さっきテレビでちらっと「うつ」の問題に取り組む企業のことをレポートしているのを見て、この本を読んだことを思い出しました。お気に入りの小さな古本屋さんの100円コーナーで仕入れました。1994年の本です。
この著者さんの本は、以前『「うつ」になりやすい人』というのを読んだことがあります。わたしは知人から「あなたは絶対にうつにならない」というようなことを言われます。なんとなくなんですが「いつまでここにいるかわからない」とか「どこかに行くかもしれない」とか「家は地震が来れば一瞬でぺちゃっとなる」とか、基本的に子どもの頃から無常観高めなところがあるかもしれないな、と、この本を読んでいて思いました。
いくつか、引用紹介します。
<41ページ 他人によく思われたい心…… より>
講演を終わってよく、まさに講演で話したこと、そのことを質問しにくる人がいる。つまり自分だけに当てはまる特別の方法を話したのでないから、質問にくるのである。講演で劣等感をどう克服したらよいかという話をする。すると講演が終わると、劣等感を克服するにはどうしたらよいかという質問にくる。
つまり彼が求めているのは、他人と同じものではない、自分だけにできる特別に安易な方法なのである。その人は「魔法の杖」を求めているのである。
(中略)
シーベリーが、神経症者は不可能なことをしなければという気持ちにさせると書いていた。そしてこのような悩みを相談する人もまた、相手にそのような方法を教えないのは相手が悪いという気持ちに追いこもうとする。
たとえば学校の先生に相談したが教えてくれなかったと激しくその先生を責める。いきなり、主体的に生きる強い人間になるにはどうしたらよいかを教えてくださいといわれれば、学校の先生もめんくらうだけであろう。
そしてそのような「魔法の杖」を求める人に共通しているのは、自分を理解させるための労力を省く。いきなり質問する。自分について説明をしないということである。自分が説明しなくても相手が自分を理解すべきであるという考えかたである。したがって、いきなりそのような質問をする。
基本的にビジネスの核には「あなたの心のスキマ、お埋めします」というのがあると思っているので、講演などで無料だったりすると「ビジネスではないです」という立てつけが後づけで来て、ややこしいだろうな、と思う。
そして自分がそのような魔法の杖を求められたときにいつも「それは、あなたに限ったことではないですよね」と言える人と、言えない圧にのまれてしまう人がいる。
<46ページ 孤立感と無価値感の勘違い より>
神経症者は人によく思われたいという願望が、よく思われなければ"ならない"と変化する。カレン・ホルナイの言葉を使えば、"wish" が "claim" に変化している。つまり自意識過剰の人は "よく思われたい" という願望ではなくて、"よく思われるべきだ" という神経症的な要求をしているのではなかろうか。
神経症者は、他人に対して優越したいという願望が、優越しなければならない、優越するべきである、優越する資格があるとなってくる。これは対人恐怖症の人の特徴でもある。つまり対人恐怖症の人は、神経症的要求を持っているということである。
ところで、なぜ願望が要求に変わるのであろうか。それは、他人に優越しなければ、自分の心の底にある自己蔑視に向き合わなければならないからである。彼らは他人を前に完全な自分を演じることで、自分の心の底にある自己無価値感を味わわなくてすむのである。それによって、自分は無価値な人間であるという感情に直面することを避けようとしているからである。
ちょうど最近「(優越したい)→優越しなければならない→優越するべきである→優越する資格がある」という思考を生み出すシステムに直面する機会があった。そのとき近くにいた仕事仲間に「こういうことで、勘違いする人が生まれるんだね」という話をしたら、「面白い。小説みたい」と言われた。
ひとつ前のコメントで「笑ゥせぇるすまん」のフレーズを引用したけれど、確かにブラック・ユーモアの小説の土台って、こういうところにあるような気がする。はじめに「優越したい」があるかないかで、そのユーモアの味わいの深みも違ってくる気がする。笑う力は、微細な感覚と連動する。
<51ページ いまできることを懸命にしているか より>
神経症者は自分にできることをするのにエネルギーを使わない。自分を理想的に見せるためにエネルギーを使い、消耗する。人前で自分が全能でないことを恐れる人は、実は自分の心の底にある実際の感情を恐れているのである。
わたしは「自分を理想的に見せるためにエネルギーを使い、消耗する」という場面にいる人にかける言葉を考えているとき、瞑想のお題として「お。それ、いただき」と思う。そう思うと、教材になるんです。
<58ページ 「半分もある」と「半分しかない」の心理 より>
慢性的に不満な人は、トータルにものごとを見られない。給料は安いけれどもやりがいのある仕事、というような全体的な判断ができない。したがって、いつも不満である。その点で社会性に欠ける。社会性に欠けるから周囲からなかなか評価されない。そこでさらに不満になるという悪循環に陥る。
ほんとうに、そうね。
<59ページ 心理的過食症を知っているか より>
完全主義は心理的過食症である。食べても食べても、もっと食べないではいられないというのが過食症である。心理的過食症の人は、得ても得てももっと得なければいられない。
それは向上心とは違う。向上心には不安が伴わない。心理的過食症の人はいつも不安なのである。そして依存心が強い。
自分がいま素晴らしい生活をしているというのでは、満足できない。自分が素晴らしい生活をしているということを、人に知ってもらわなければならない。また自分が素晴らしい生活をしているというより、人より素晴らしい生活をしているということが大切になってくる。
つまり、自分の人生に意味を与えるものは自分ではなく、他人なのである。
わたしがヨガをしていることを知っている仕事仲間に「うちこさん、ぼくは、太っている人は、やっぱりだめだと思う。いい思い出がない。そう思いませんか」と同意を求めて言ってくる人がいて、「身体が過食症なら、心にもそういうところがあるかどうか、完全には結び付けられない。まだ、言い切れるほどの凡例は、十分にない」と答えたことがあります。でも、結びつくかもしれないな、と思う人もいます。痩せていたら確実にイケメンな人とか、痩せていた頃の記憶のまま、バランスを崩したのかな、と思う。
<68ページ 不満100パーセント人間の消化剤 より>
自分を不満にしているのは、相手の欠点であるとその人は信じこんでいる。しかし多くの場合、そんなことはない。相手の欠点を認識するということと、相手の欠点に不満になるということとは違う。
これは、友人でインド人と結婚をしたミチコさんとダンナさんの問答を思い出す。この記事でコメントをくださっています。
<72ページ 八方美人になりやすい人 より>
八方美人の人は他人にいい顔をするが、他人の固有の存在を無視している。これほど他人の尊厳を軽視している人はいない。八方美人の人は、素直さがどんなに価値あるかということは理屈でしか理解していない。八方美人の人にとっては、素直な人でも自分を誉めてくれなければ、誉めてくれるひねくれた人のほうが価値がある。
(中略)
八方美人は相手にいい顔をしつつ、ちやほやされたいということしかない人なのである。八方美人は相手の存在を無視している。したがって、相手の心とふれあうこともない。
いい顔をしないと、誰も自分を相手にしてくれないのではないかと恐れている。恐れを持っている人が、相手の心とふれあうというようなことはない。そして一人の人に拒絶されると、すべての人に拒絶されたかのように思いこむ。
「八方美人は相手の存在を無視している」というところ、ヨガ友のめぐこ姐さんは、それをリアライズしたうえでやっているからすごい。大人の女。(この記事に書きました)
<108ページ 「青い鳥」を追いかける人の心理 より>
自分の力量とは、記憶力が素晴らしいとか、英語ができるとかいうことだけではない。そのような能力と、その人の自我の確立の調和である。人は心を乱したとたん、その能力はほぼゼロになる。
インド人みたいなことをおっしゃる。
<114ページ 自分を恥じる気持ちを表に出せるか より>
栄光は不安から人を救わないが、愛は不安から人を救う。栄光は人に安心を与えないが、愛は人に安心を与える。
インド人どんどん出てくる。
<141ページ 「悩み」はあなたの財産である より>
だいぶ前のことになるが、ある恋愛論を読んでいたとき、女性は自分の肉体を与えたときに世界を与えたような気持ちになるが、男性は玩具をもらったような気持ちになる、という主旨の格言が引用されていた。猫に小判という格言もある。また本人は小判のつもりでも、相手はまったく小判とは思っていないときもある。
わたしの中のオッサンが暴れ出す瞬間は、まさにこの女性の勝手な思考方式に触れたとき。
<154ページ 「悩み」はある日突然解決する より>
相手を投影的に同一視してしまう人は、相手と自分との関係がわからない。あるのは自分のなかの必要性だけなのである。相手と自分との関係ではなく、自分が相手に会いたいかどうかということしかない。自分が相手に会おうとしたときには、会えなければそれはおかしいということになる。
まったく、そうなのねぇ。モンスターといわれる人とかも、そうかも。
<168ページ プラス・チャンネルに切り換える より>
情緒的に未成熟な人は、不安によって誇張された困難におじけづき、圧倒されて、自分の現在の幸運の部分を忘れる。普通の人は、不運ばかりということもない。不安な人は全体として考えれば幸運なのに、不運な面ばかりに気持ちをとられすぎて、悩みつづけて一生を終わる。
シュリ・シュリ・ラビ・シャンカール氏が「10の褒め言葉をもらっても、1の侮辱で上書きされるメモリーって、アホか!」っておっしゃってたのと似ている。
<205ページ 「考えただけ」と「実際にやった」の、危険な差 より>
神経症的要求を持つ人は、とにかく幸運なり、他人が自分に何かしてくれることを待っている。幸運をいつまでも待っている。自分のほうから何かを仕掛けていくということをしない。
(中略)
何か興奮するようなことを体験したいと願う。しかし、自分から何かそのようなことを仕掛けていこうとはしない。人が何かしてくれると、そのことに不満をいうが、自分からは何も人のためにはしようとしない。
(中略)
彼らには、自分が「やろうとした」ということと、「実際にやった」ということが、どれほど違うかがわからない。彼らのいうことを聞いていると、ほとんど同じことと感じてるのではないかと思えてくる。
会議などでも、こんなことができる、あんなことができると案をいいながら、一つとして実行しない人が多い。それでいて実際に実行した人を尊敬しない。やろうとすれば誰でもできるといわんばかりなのである。「できる」ということと「実際に実行した」ということの間には、本質的な違いがある。
こんどは、沖先生節だ…。
<222ページ なぜ酸っぱいレモンを甘いと言い張るのか より>
個性的ということは、普通ということである。普通の人のほうが本当は個性的である。普通の人は、わざわざ人から普通の人と同じ基準で判断されることを避けるために、自分を偽ったりしない。
普通にしているということは、自然にしているということである。普通にしているということは、格好をつけないということでもある。
つまり、自己実現的に生きているということである。自分のできることをしているということである。神経症的ということと、個性的ということは違う。
「わざわざ人から普通の人と同じ基準で判断されることを避ける」というのは、本当に不自然だと思う。「世界に一つだけの花」という歌がこういう解釈でヒットしたのであればよいのだけれど、残念ながら、そうではないと思う。
「わざわざ人から普通の人と同じ基準で判断されることを避ける」ことに疲れた人へ、逃げ道をぼんやり提案する歌に聞こえる。
<235ページ 失敗、トラブルに耐える「自分」 より>
昨日熟睡できなかったのは、自分が神経質だからと決めこむ。神経質でなくても、眠れないときには眠れない。
しかし悩む人は、自分が神経質だから熟睡できなかったと、熟睡できなかったのは自分の弱点が原因であると決めこむ。そして同時に、他人をも決めつける。あの人は図太いから熟睡できる。自分も他人も、こうだと決めつける。
余剰エネルギーの存在に気づきましょう。ヨーガの偉大な教えは、そこにある。
「ノイローゼ」という言葉が使われなくなってから、こういうトーンで書き続けている人は少ない気がする。沖先生の言葉を現代的に仕上げてくださっている、ヨギには興味深い本でした。