うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

不眠症諸君! なだいなだ 著

不眠症諸君!
旅行中はいつも小さな文庫を、古本屋で買いためてある本の小箱から取り出して持っていくのですが、この本は神戸までの行きの移動でイッキ読みしてしまいました。ものすごく面白かった。期待以上にもほどがある。
著者の診療室に不眠症だという「Iさん」が訪れ、その対話でお話が展開していきます。「こころの診療問答エンターテインメント」とでもいうのかな。「おわりに」の章で、精神科医である著者さんが医師としてまとめを書いているという構成です。この「おわりに」を読んだとき、うちこ自身のこころの生い立ちについてものすごく思い当たることがあり、ドキッとしました。
先に、Iさんとの対話の最後のほうに登場するこのくだりを紹介しておきます。

<144ページ 「睡眠薬と人間」より>
 ぼくは、その時考えていました。人間、眠れなくて死んだ人はいないが、眠るための睡眠剤中毒で、これまでに何人の人間が死んできただろう、ということであります。


そしてもうひとつ、後半に本格的な「不眠症」の分解に入る場面での切り込みスタート文も紹介しておきます。

<106ページ 「深い眠りは必要なのか」より>
 読者諸君、さて、ここが問題なのであります。ぼくは、人間が、ぐっすり眠りたいという欲望を持っていることは認めます。しかし、欲望はそのまま必要を意味するとはいえないのであります。大食いの欲望を持った人間は、必要以上に食べてふとりすぎになることもあります。ぼくが、Iさんに考えてもらいたいのは、その点なのでありました。

「欲望はそのまま必要を意味するとはいえない」というのがこのお話の根幹になります。


そして、この本の書き方に一貫して存在するこのスタンス。

<「はじめに」より>
 やぶ医者には、やぶ医者にふさわしい書き方というものがあります。わかっていることをわからなくさせ、希望を持ちたがっているものを絶望させる、というような書き方であります。そして、その書き方で書かれてこそ、その本には存在価値があるというものであります。ここが大切なところであります。

本に答えを求める時点で、不眠症フラグを欲しているのかもしれない、と思ったほうがいい。
病院に行くことを否定はしないのですが、「病人フラグを立てたい」という心の状況にまず立ち止まることができたら、、、というのがうちこのスタンスです。
なので、なだ先生の本にはいつも夢中になってしまう。
「こころの診療問答エンターテインメント」の部分から引用紹介を続けます。

<20ページ 「正直作戦」より>
Iさんは、まじめに話すことを冗談ととり、冗談でいったことをまじめにとる、数多い日本人の一人のようでありました。ぼくは、そのあたりから、正直作戦が意外と難航しそうなことを予感したのであります。

逆の立場でいうと、こういうスタンスの聴き手である瞬間は、本音ではだれからも向き合ってもらえないということ。
当時から、「数多い日本人」であったのだなぁ。「増えてるよね〜」という状況がずっと続いているんだ。でもきっと、ひとりの人のなかで増えたり減ったりもしているのだろうな。

<108ページ 「深い眠りは必要なのか」より>
(犬の眠りについての対話の後)
「犬ばかりじゃないですよ。そう考えてみると、ぐっすり眠りたいなんて思うのは、家を持ち、鍵もかけられ、しかも静かで冷暖房も充分な部屋で眠る人間ぐらいじゃないか、と思うんです。八時間、ひといきに眠れないと不満に思う動物は、いったい人間以外にあるでしょうか。」

ひといきに眠れないと「不満」。そう、不満なんです。眠らなきゃいけないんだっけ? ではなく。野生はどこへいった?

<109ページ 「眠りの欲望と文化」より>
(武士、剣士たちの眠りについての対話の後)
「Iさん、その当時の武士たちは、食べものの方もどうでした。なるべく、まずいものでもがまんしていたのではないですか」
「そうだな。すると、ぐっすり眠るというのは、人間の生理的必要からくるものとはちがった、文化的な欲望というわけか」

感覚的に持ち物のように「最低限文化的な生活」「ぜいたくの指標」のひとつなのだと思う。憲法に書いてあるだろ! 的な。書いてないのに。

<121ページ 「意志とは抵抗のこと」より>
「これまでの心理学では、人間の心理作用を、知・情・意の三つの作用にわけて考えてきたんですが、そこが問題なので、意志は独立したものではなく、知が衝動にさからい、抵抗する、そうした作用にすぎず、純粋意志なんてもものはない、これがぼくの考えです。ごく短くいえば、意志とは衝動に対する知的抵抗なんです。だからこそ、昨日、今日、明日を考えられるほど知能を持った人間が、はじめて意志らしい意志を持った唯一の動物といえるわけです」


(中略)


「英雄たちが、意志の強い人間であったことはたしかでしょう。しかし、意志の力で、いつでも眠れたと考えるのは、まちがいですね。意志はねむさに抗し、眠る衝動に抵抗するために使われたんです。その結果、いつでも眠気にさらされていたわけで、抵抗するのをやめれば、即座に眠れたんですね」


(中略)


「Iさん、意志とは、自分の行動する未来に遠近法に従って並べられた知識・経験に従って、本能に抵抗することです。こうして、本来ばらばらの衝動(少なくとも現在的にしかまとまりのない衝動)は、ひとまわり大きい時間空間の中に、調和的に並び変えられるのです」

本来ばらばらの衝動が自分の行動する未来遠近法にフィットしないと「おかしい」だなんて。明日もパフォーマンスを発揮したい俺様の身体が思い通りに休めないなんてヤダヤダヤダーって、かわいく言ったってだめです。あなた様の肉体様に、まず聞いてみなくちゃ。「いや実はそんなに眠らなくてもいけまっせ」って言ってるかもよ。それよりも「明日も発揮したい俺様」さんをどうしましょうか、という方向に目を向けたほうがいい。

<127ページ 「動物の眠りと人間の眠り」より>
ぼくたちは、文化的に寝る習慣までは身につけられますが、寝ると眠るとは同じじゃありません。眠りはあくまで生理的、寝ても眠れるという保証はない。寝ることと眠ることが一致してくれれば問題はないが、なかなかそうはいかぬもの。はじめはたまたま二つが一致するだけですが、ぼくたちは、たまたまの一致には満足せず、もう少し強く、この二つが結びつくことをのぞむのです。そうして、成功した時の条件を次の時にもつくりだそうとします。こうして、同じ条件を再生産して、この条件で前回は眠れたのだから、今回はこの条件ではじめからいこう、ということになる。つまり睡眠儀式は、こうしてつくられるんです。

「もう少し強く」。これはダークサイドへの道のりとよく似ている。

<164ページ 薬をのむ より>
「その時、眠ってみなければ、必要かどうかわからない、といいましたがね、ねつきだけは、一時間横になるだけで、いいかわるいか、見当がつきます。眠りが浅いか深いかはわからない。何時間眠れるかもわからない。だから、ねつきだけにしぼるというわけです」

薬を「寝つきだけにしぼる」というところの説明はすごく面白かった。見当がつかない領域は、まず睡眠はさておき認めなきゃいけないことがあるんですよ、あなた自身に。ということがあった上で、用法の指南が始まる。薬は絶対NOってわけじゃない。でも、「明日も発揮したい俺様」をお金で買うように化学物質を使うと痛い目に遭うよ、ってことなんですね。


そして、このあとは「おわりに」の章からの引用です。
ここまでは問答形式で進んでいたのですが、最後の章では精神科医としての解説になっています。
うちこは、まさかここで自分が元来備えていた「のび太体質」のルーツを知らされることになると思っていなかったので、のけぞった。

<193ページ おわりに 「眠りと不安」より>
 眠りそのものに関する不安といえば、実は、人間は眠ることに不安を感じることの方が先なのです。子供の頃を思いだしてごらんなさい。その頃は、自然に意識せずに、ただ眠気に負けてねいってしまうことが多かったのですが、ふと眠っているあいだに、何か起こることが心配になる。そういう経験を思いださないでしょうか。眠っているあいだに、自分はどこかに棄てられるのではないか。親が逃げてしまうのではないか。眠っているあいだに心臓がとまってしまうようなことはないか。眠ったら、またまたこの前のような恐ろしい夢を見るのではないか。そういう心配のため、子供時代になんとしても眠ることをしぶって、目をあけて頑張り続けようとしたことが、ほとんどの人に思いだされるはずです。でも動物としては、これで当然なのです。生物的には、眠りのあいだは全く無防備になるので、そのことに不安を感じるのが当然ですが、その不安を人間は、いくつかの就眠儀礼によって手なずけながら成長します。もう十時ですよ、子供は眠る時間です、と眠ることを命じられる。そこでぬいぐるみを抱かせてくれたら眠ると妥協する。おやすみのあいさつをしてくれたら眠ると答える。それらのあるものは、罰によっておびやかされながら強制された儀式であり、また、あるものは子供が抵抗することでかちとられた妥協です。
 ですから眠れないことでわき起る不安は、実は子供の頃の睡眠不安が、形を変えて姿を現わしたものと考えてもよいのです。眠っているあいだに心臓がとまって死ぬのではないか、という不安が、眠らないでいると、心臓の調子がおかしくなるぞという不安に変るというぐあいです。
 眠れないために起る不安が、かえってぼくたちの眠りを妨げることになるのは、矛盾しているようですが、こうして不安のもとをたずねていけば、決して矛盾はしていないのです。

小学校へ上がる前のすごく幼いころ、家族の間でも笑い話になっているエピソードがある。母親が仕事で家をあけて父親と二人で夜を過ごすというのがイレギュラーだったある夜、うちこは「お父さんは、きっと出かけていく」と思っていたようなんですね。よく覚えていないのですが、とにかくいきなり数軒離れたすし屋かどこかに、夜中に「おとうさ〜ん」といってパジャマのうちこが店に入って来て、父がびっくり仰天した、という笑い話がある。父的にはちっとも笑えなかったようだけど。
うちこが店のドアをガラガラ〜って開けたらやっぱり父がいて、飲んでいた大人たちにすごく驚かれたことを視覚的に記憶している。わざと寝たフリしてイタズラしたのかなぁ。そこまでは覚えていないのだけど。とにかく子供のころから、「行動」することをしていたんですね。寝る時間になっても妥協しない(笑)。確かめに行っていた。
なので「睡眠儀式」は、「たしかめないで済ませるための手法」ってことなんだと思うんです。


<199ページ おわりに「不安」より>
 人間は、今をどう見るかによって、不安を処理できたり、処理しきれなくなったりします。もともと、人間は不安なしでは生きられません。今、健康であっても、明日病気にならぬとは限らぬのです。しかし、明日のことが不安で、今日を明日のためにだけ生きるようになりだす。明日起こるかも知れない苦痛を、不安の形で今日先取りしてしまう。そのためにっちもさっちもいかなくなり、医者にたすけを求めてくる。それを神経症と呼ぶのです。


(中略)


 ついでにいいますが、今日が昨日の自分の行動、それ以前の行動への後悔で動きがとれなくなっているのが、うつ病と呼ばれる人たちです。今日を生きようとしないのです。躁病の人たちは、今目の前にあるものにひっぱられ、今日を過去と未来の中に調和させることができないのだといえます。今日を生きるより、今日を上すべりしてしまうのです。

「明日起こるかも知れない苦痛を、不安の形で先取り」というのは、わかりやすい説明だなぁ。


このブログを読んでいる方は(多くの方が、ありがたいことに)リピートまでしてくださるファン目線なので想像しにくいかもしれませんが、うちこも普通に生活をしているわけで、「生うちこ」は人格や行動について批判を受けたりします。こういうことの強度には平均値なんてないのだと思うのですが、特定の範囲で計測してあるかないかで言うと確実に「ある」ほうにおり、それが強いか弱いかといえば「強い」ほうにいる。それが「悪い」とされたときには、「明日居なくなれ」とばかりにものすごい人格否定をされたりすることがある。
でも、そういうのもひっくるめてうちこを知ってくれている(各種場面の)仲間たちは「それでもうちこさんは絶対にうつ病にはならない人」と言う。
絶対なんてあるんかいな、と思うのだけど、「たしかめること」をするから眠れるのであって、「たしかめること」をきっかけに摩擦がおきているのであって、「たしかめないで済ませるための手法」に落ちてしまったら、感情の襞になにもひっかからない「つるつるの心」になってしまう、それはいやだ。という気持ちで生きているのがそういう印象に繋がるのだろうな。


ストレスなく、ぐっすりしっかり眠りたいという小市民である必要も、眠らなきゃいけなくなったら寝ればいいよねという英雄である必要もなくて、まずは儀式にとらわれることをやめてみたらいいね。
食べることもしかり。

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