うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

シッダールタ ヘルマン・ヘッセ著 / 高橋健二 訳

シッダールタは先にほかの訳者のバージョンを2冊読んでおり、この本を最後に読みました。
ヘルマン・ヘッセの本はひとつ読むとすべての訳を読みたくなります。この部分にほかの訳者はどの日本語を充てたのだろう…と気になって、結局全部読むことになってしまう。
わたしはシッダールタの中で、どの訳も同じように書かれている序章の以下の表現がとても好きです。原文がインドの心理学ベースで書かれていることを存分に推測させるフレーズがあります。

一時間たっても眠りが目を訪れないので、バラモンはまたも起きあがり、あちこちを歩き、ついに家の前へ出て、月がのぼっているのを見た。

第一章で、息子の様子が気になって眠れない父親が一時間おきに起きあがって見に行く場面。日本語だと「眠れない」とざっくり言うところを「眠りが目を訪れない」と表現されています。
目は器官で、視覚は知覚で、眠りは意識の状態。この父親の「眠れない」状態は眠りを獲得できないのではなく、目という器官に蓋(まぶた)をしてもずっと覚醒した意識と思考がそこに居座っているということ。こういうバラモン世界の考え方にも細かく配慮されていることが、読みはじめの時点でわかります。

 

その後は油断ならぬ読書でありながら、同時にうっとりするような時間もあり、読んだ人は全員そう言うんじゃないかと思うのですが、どうにもすごい話です。この本がわたしに勘弁してくれというほど考えさせ、強いてきたことは

 

 

 生意気とは、どういうことか

 

 

という、思い出すと「ああっ」と声を出して頭を抱えるような、そういう気持ちの堆積。そして、それを切り崩す作業。
これをひとりでやるのはとてもしんどいことです。それを読書を通じてできるというのは、もはや「ヘッセ診療所」へ通うようなもの。もちろんそこは心療内科
子どもの時期を過ぎた人間が生意気な発言をするときの、そのメンタルに至る過程をとことんいっしょに掘り下げてくれる。厳しくてやさしいドクター・ヘッセの愛の鞭は、ハイスクール・ララバイの振り付けレベルのビンタではなく、アントニオ猪木によるリング上のビンタに近い重量感。

でも、ぶたれたい。ぶたれないとなんかヤバいと思うから。

 

 

 そもそも自分自身から逃げないと、生意気になんてなれない

 

 

ちょっと変な日本語に見えると思うのですが、この物語を読むと首をぶんぶんタテに振ることになる、そういう章があります。「目ざめ」という章です。


シッダールタは愛欲の話でもあり、多くの凡人がしていることなのに、そこで異様にエゴと思考をこねくりまわす主人公への師の手ほどきもユニークです。これは師のセリフ。

「あなたは愛することができません」

なにかの新興宗教が立ち上げられそうです。愛染明王の像を置きましょう。
執着はエキスパート級だけど愛を使ったことがないビギナー(主人公)がやってきて、本人はそれを知る由もない。根性から入れ換えないと、ある程度のところまではいけても成就はしないことがわかっている。でも本人は自分にできないなんて想像していない。こりゃ大変。でももうちょっと詰めれば愛染明王の像を買いそうです。さあどうする教祖。

 


主人公は、悟りを得ようとすることがエゴではないかと自分を客観視できているような口ぶりでありながら、ずっと戦っています。

 

 

 運命と戦うことをやめ、悩むことをやめる。

 

 

これが悟りだと、ドクター・ヘッセは言っている?
もしこれが悟りだというのなら、瞬間的にはときどきやれる。頭をおっぺけぺーで満たせばいい。でもそれが長期の実践ベースとなったら、自分は無気力というマイナスのエネルギーに殺されずにいられるだろうか。執着以外の方法で無気力を退けるにはどうすればいい?

ヨーガは、そんな苦悩から開発されたのでしょうね。

 

シッダールタ (新潮文庫)

シッダールタ (新潮文庫)

  • 作者:ヘッセ
  • 発売日: 1959/05/04
  • メディア: 文庫

 

▼先に読んだシッダールタ

 

 

デミアンもええよ