うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

インドへ 横尾忠則 著

1977年の本です。1974年からの二度のインド旅行記をオムニバスっぽく章立てしてまとめられています。
「パイサ」という通貨があった頃のインド。今でこそインドはひょいといける国になりましたが、当時の日本じゃかなりのチャレンジ感があったのだと思います。一方で、芸術家が「ドラッグやってました」と言えちゃう時代でもありますから、そこのところは他のインド旅行記では読めないおもしろさがあります。
サイババユリ・ゲラーなんて人名が出てくると楽しくなってしまうアダルト読者さんにはたまらない内容でしょう。篠山紀信氏も同行していて、篠山氏がサイババと間違われているのを横尾氏が「そうだよ! このひとサイババ」といって楽しんでいたり、異常なおもしろさ。
いまだにかなり大げさなハードルのニュアンスがあるインドですが、三島由紀夫氏が横尾忠則氏に言った言葉が、かなり口伝で広まっている影響が大きい気がする。
まずはそこから紹介します。

<18ページ カルマに導かれて より>
三島(由紀夫)さんが生前ぼくに、人間にはインドに行ける者と行けない者があり、さらにその時期は運命的なカルマが決定する、というような意味のことを語ってくれたのを、この夢の光景を現実にしながらふと思い出した。

友人に「インドは呼ばれる時期がある」かのような、まるで高野山の弘法さまに呼ばれるような、そんなニュアンスで「そういうものらしいって、なにかの本で読んだ」といわれたことがある。この本だったみたい。


関連するエピソードがあったので、その部分も紹介します。

<110ページ 三島さんの決定的な言葉 より>
ぼくが本当にインドへ行こうと決心したのは、三島さんが亡くなった1970年11月25日だった。この三日前、ぼくは珍しく三島さんと長々電話で話した。
(中略)
三島さんがぼくが装幀と絵を描いた写真集『新輯・薔薇刑』<細江英公撮影>の中の絵を批評して、
「あの絵は非常に気にいっている。よく俺を理解してくれた」
「……?」
「あの絵は俺の涅槃像だろう?」
いわれてみて、ぼくは、なるほど三島さんはうまいことをいうなあと感心した。
「ヒンズーの神々と俺の涅槃像を結びつけてくれたところが一番気にいっている。とにかく、君はいつインドへ行ってもいいようだ」
 三島さんの話はまだ続いていたが、ぼくの頭の中には「いつインドへ行ってもいい……」という三島さんの言葉だけが、妙にはっきりと、宙に浮いたように光っていた。この日三島さんが語ったいろんな言葉が、ぼくに対する最後の別れの言葉であったということは、三日後のあの忌わしい事件で初めて知ったのである。

「よくぞわかってくれました」というのは、喜びの種としてすごく大きなものなのだなと思う。三島氏については映画「黒蜥蜴」の肉体陶酔の姿の異様さが刷り込まれてしまっており、なににつけ「大げさ」とつい思ってしまう。


横尾氏がインドへ行ったきっかけは、まさにこの時代ならではのことであるな、な部分。

<127ページ ヒッピーの拠点ゴア そして神の座ヒマラヤへ より>
インドはぼくの中で次第に増幅を始めた。現在欧米などで、インドがカウンター・カルチャーの一つとして次第にムーブメント化されつつある。ぼくは確かにこうしたムーブメントに魅かれてインドに来ることになったわけだが、インドはそうしたカルチャー・ムーブメントとしてではなく、もっと個人の宗教意識に直接突き刺さる、人間の存在にかかわる非常に重要な問題を内在しており、人はそのことにいやおうなくぶつかってしまうのである。だから単にインドをカルチャーとしてとらえるならば、コマーシャル化されたヒッピー・ムーブメントやイデオロギーに持っていかれる危険性もある。あくまでインドは個人的な領域においてインドでなければならない ── と、ぼくはインドで考え始めた。

そしてあとがきに、こうあります。

東洋人であるぼくには、ストレートな東洋よりもこうしたソフィスケートされたアメリカ製のインドの方が、より魅惑的であると同時によく理解できた。われわれには、このように、なんでもかんでも一度アメリカの文化を通過したものでなければ受け入れられない素地のようなものが、いつの間にかできあがってしまった。

アメリカよりも、インドはもともと近いはずなんだよね、ということへの視点があるかないかで、宗教に対する向き合い方をのちのち示される。そういうことを意識するかしないかで、ヨーガへの向き合い方の奥行きが違ってきます。
横尾氏もそうですが、ヨーガをきっかけに禅に向かう人の気持ちは、わたしもよくわかる。

<33ページ 小さなガイドたち より>
インドのあちこちには、こうしたクリシュナ神を初め多くの神々が、薄っぺらな神に印刷され、スターのブロマイドよろしく街頭の地面に並べられて売られている。神を恋人や妻を愛すると同じような感覚でとらえているのであろう。キリストやマリア崇拝にもこのような現象が見られるが、わが仏教に関してはお釈迦さまのブロマイドを定期入れに入れたり、ダンプカーの運転席にアグネス・ラムやピンク・レディーの代りにピンナップするような習慣はまったくなく、それ故に釈迦は遠い存在として、日本人の中には生きていない。インドと大いに異なるところである。

ほんと、原宿のジャニーズ、新大久保の韓流スタアと同じ感じです。


そして、スタアの流れで、冒頭で予告しためちゃくちゃ笑える話。

<186ページ 聖者のこと より>
サイババユリ・ゲラーのように超能力を発揮するらしい。
サイババは、サドゥといっても乞食のような格好で放浪しているわけではない。立派な洋服を着、ヘアーはアフロ・スタイルである。篠山紀信のヘアースタイルを想像すればいい。篠山君とインドを歩いていると大変だ。あんなヘアーをしているのはインドでは篠山君とサイババだけである。だからインド人は篠山君をもしやサイババの出現ではあるまいかと思い、驚きと好奇の目で彼に近づき、彼の顔を食い入るようにのぞき込む。そしてあちこちから「サイババサイババ」という声が聞こえてくるのだ。子供なんか本当にサイババだと思っているのか、真剣な表情でぼくの腕を引っぱりながら、
「あの人、サイババ?」
と聞くもんだから、
「そうだよ!」
と答えると、すぐ仲間の所に走って行く。そしてわれわれの後は常に子供達が「サイババサイババ」と呼びながらついて来るのだ。
「インドなんて情報不足だから、ついこんな俺の頭を見ると本物のサイババだと思ってしまうんだなあ」
とは篠山君の弁である。確かに篠山君のいうように、印刷物にしたって修正だらけで、色は人工着色だし、絵だか写真だかわからない。そんなさだかでない情報によるものだから、本物とニセモノの区別ができないのであろう。

サイババ撮影「宮沢りえ写真集・サンタフェ」は、開くと砂が出てきますのでご注意ください。要・袋とじ。(妄想)


ここからは、わりとまじめなピックアップ。わたしも同じように感じたところ。

<67ページ 「汚れ」の概念からの解放 より>
 ぼくは旅行者である。だから時には郷に従わなければならない。しかし、郷に入る以前に、ぼくはすでに乞食に対してインドのカーストに適応している。ぼくの中の差別意識であろうか。
 インドを長く旅していると次第にこのような自分自身が嫌になってくる。なんとかしてインドの「汚れ」の概念から逃れたいと思うようになってくるのだ。(中略)インド人の凝視する無数の目が恐ろしく感じられたのも、きっとこの「汚れ」の概念に要因があったのだろう。

インドへ行って「郷に入る以前に、ぼくはすでに乞食に対してインドのカーストに適応している。ぼくの中の差別意識であろうか」と感じない人は、いないんじゃないかな。

<139ページ 「なぜ?」の答はなんでもいい より>
 ある店に入ると日本人の若者そっくりなネパールの若者が「LSDを買わないか?」といってきた。熱があるぼくはすでにハイの状態になっているので、「いらない」といった。すると、「なぜ?」とその理由を聞く。インドでもそうだが、彼らがよく理由を求めるのには驚いた。一体理由を聞いてなにになるというのか? インドとかネパールには「なぜ?」という言葉がないと思っていたのに。インド人一人一人が本気で「なぜ」という言葉を発したならば、あの国は一体どうなるのだろう? 「なぜ?」という言葉は発するが、決して答を期待していないのかも知れない。理由はなんであってもいいのだ。「LSDを買う金がないから」「LSDは怖いから」「きらいだから」 ── 答はなんだっていい、ただ理由が知りたいのだろう。「なぜ自分は不可触民なのだ?」「それは神様がそうさせたのだ!」 ── これでいいのである。もしインド人が欧米人のように執拗に質問ぜめをしたならば、あのインドは滅びてしまったかも知れない。「なぜ?」という問いかけが現代の科学文明を生み、人類の精神を荒廃させたのである。インド人はよく「なぜ」を発する。しかしその答がどうあろうと素直に受け、それ以上問おうとはしない。

コミュニケーションの面倒さを想像すると肩透かしを食らう。そう、「なぜ」は投球。インドは、「野球をしに来ましたがバッターボックスには立ちません」というスタンスでは無理なんです。誰かに個別に誘われたら行事に参加するとか、なにかのトリガーがそういうところにあるような人にはしんどいだろうなと思う。主体性の話。

<158ページ 現代芸術が切り捨てたもの より>
 ぼくはインドで、自然と人間が合体し、一つに溶解していく姿を見て、ここに芸術の原点があると強烈に感じた。自然との交流を失った人間が作り出すものはその結果において悲劇性を帯びている。確かに現代文明はわれわれを物質的に満たした。しかしその反面、人間が物に従属し、自然から離れた生き方を良しとしている。人間の限りない夢と欲望が現代の文明を作った。人間が自然から離れた時、人間はすでに自らが自然の一部であることを捨てることになる。

ここは、芸術家さんならでは。


まだ読んでなかったの? と言われそうな本ですが、読んだのは最近です。
わたしのなかでは、「河童が覗いたインド」とこれが、日本人によるインド旅行記のツートップ。

インドへ (文春文庫 (297‐1))
横尾 忠則
文藝春秋
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▼2019.3月追記:こんなの書きました
uchikoyoga.hatenablog.com