うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ウパニシャッドからヨーガへ 佐保田鶴治 著

ウパニシャッドからヨーガへ 佐保田鶴
昭和52年に出された本。「ヨーガ根本教典」の初版の4年後です。これまでに佐保田先生が訳された本では「ヨーガ根本教典」「続・ヨーガ根本教典」を読んだことがあります。先日紹介した「ヨーガ(NHKやさしい健康体操)」は、佐保田先生の教えのエッセンスでやさしく包まれたヨーガ体操の本でした。
ウパニシャッドやギーターについては、ヨーガを学ぶ流れの中であれよあれよと引き込まれていった感じなのですが、この本ではウパニシャッドという思想の流れをひもときながら、ヨーガとのつながりをきっちり解説されています。インドの宗教関連の本を読み慣れていないと、いきなり読むのはしんどいかもしれません。うちこもいろいろメモしているけど、これらのものは後になって「あのときの、あれか」とつながることがとても多いです。

今回は、紹介のしかたをうちこなりに少し整理しています。いつもはその文体や言葉の選び方、あて字や今となっては誤字(別の意味で普及している)ととらえられそうな単語も含めて「そのまま引用」していますが、今回のいくつかの箇所については「要約・整理」して紹介します。
もうひとつ、今回は本の章立てどおりにではなく、「ヨギ仕様」に順番を入れ替えています。この本の流れは、タイトルの通りでウパニシャッドからヨーガへの流れで章立てされていますが、あえて後半にすえてある「中期ウパニシャッドとバガヴァット・ギーターにおけるヨーガ思想」という章のほうを先に紹介します。過去にこの場でバガヴァット・ギーターの紹介をしていることと、このブログを参考にしていただいている方は、圧倒的に「各種ウパニシャッド」よりも「ヨーガ・スートラ」のほうが身近かと思いますので。

今日は少々長くなりますよ。

<序章 より要約>
ウパニシャッドの宗教は宗教類型学上でいうと神秘思想。
●神秘思想の根幹はメディテーションにあり、この行法への傾斜はウパニシャッド思想の初期から現れていた。
●この黙想、静思の行法を示す語はウパニシャッド思想の発達過程で変遷するが、ディアーナ(禅那)という語に落ちつく。
●その後、時代が下がってヨーガという語が登場。
●ヨーガのテクニックの形成はウパニシャッド修道士の手によったことは確かだが、外部からの思想的刺戟の影響結果の疑いもある。
●他方で、ウパニシャッド思想圏の外でサーンキャ(数論)哲学が生まれる。
●この創始者バラモンではなく王族出身の人々と思われる。
●王族(クシャトリア)はブッダやマハービーラほどバラモン思想から独立していなかった。
●かれらは、マハーバーラタ、特にバガヴァット・ギーターのような一神教的な色彩をおびた宗教を創造した。
●新しいウパニシャッドである、マーイトリはヨーガの六支(部)として調息、制官、静慮(meditation)、執持(concentration)、思択(contemplation)、等持(absorption)を挙げており、神秘思想的技術もここに至って完璧だといわなければならない。(ここのみP56「ウパニシャッドの神秘思想」より)
●サーンキャ哲学はヨーガと最初から結びついていた。サーンキャという名称は、古いところではサーンキャ・ヨーガという形で現れている
●サーンキャ・ヨーガの宗教・哲学の思潮は紀元前数百年の間、ずいぶんと流行したようだが、その頃にヨーガ・スートラの内容が追々と成立していった。
ウパニシャッド思想は後に体系化してヴェーダンタ哲学を生む。ヴェーダンタは元来ウパニシャッドの別名。
ヴェーダンタ・ヨーガが形成される後期ウパニシャッドの時代になると、サーンキャまでもがヴェーダンタ思想に取り込まれていく。
●12世紀になって、ヒンドゥ教の一派であるナータ派の師家によって開発されたと言われるハタ・ヨーガはヴェーダンタを無条件にその思想的背景としている。
ヴェーダンタを知る上で、バガヴァットギーターの思想理解をさしおくわけにいかない。

ウパニシャッド、サーンキャ、ヴェーダンタ、そして神秘思想。ヨーガの哲学を学んでいるとたびたび併走してくるこれらの哲学の絡み合いや、哲学が展開していく背景として欠かせない王族とバラモンの階層感(当時は階層というよりも、立場)で「えっと、これは、なんだったっけ」という時のメモです。

<中期ウパニシャッドとバガヴァット・ギーターにおけるヨーガ思想 より要約>
・「馬に馬具をつける」という由来と語義をもったヨーガという語が行法の名称らしい形で現れるのは、ヴェーダンタ文献の中では「ターイティーリヤ・ウパニシャッドが最初。ここでの'yoga'はバガヴァット・ギーターの中で「こころの平静な状態(sama-tvam)」と定義されているものと近い意味、内容をもっていたであろう。
・ギーターの中でヨーガという語はいろいろな意味で用いられるが、注目すべきは(1)jinana-yoga(=samkhya-yoga) (2)karma-yoga (3)bhakti-yoga

やっぱこれが3強的なキモなのですね。

<234ページ 中期ウパニシャッドとバガヴァット・ギーターにおけるヨーガ思想からの引用>
 (上記3分類の)第二のkarma-yoga(行のヨーガ)は行動的な人に適した宗教的立場とみることができる。(中略)この場合の行動は、その行動の結果に対する無関心と、動機としての欲望の完全な滅却を sine quanon の条件としている。つまり、それは宗教的に浄化された限りにおいての行動主義なのである。
(中略)具体的な義務はつねに、各人がその置かれた社会的位置に応じて、場たる社会から実行をせまられるところの行為である。Sitte とか mos とか礼(中国)とかよばれるものに基づいて、具体的な一々の義務は成り立つのである。このことをギーターは神の口を借りて、「四姓(カースト)の制度はわれこれを作り、適宜にその性格と義務とを分配せり」と説いている。現実に人が生きてゆく場である、閉鎖的な階級的社会分域において課せられ、要求される義務をギーターは 'sva-dharma'(各自の義務)とよんでいる。

カルマ・ヨーガはよく「社会的活動によるヨーガ」という言葉で語られますが、「各人がその置かれた社会的位置に応じて、場たる社会から実行をせまられるところの行為」ということであると、これまでのような無邪気な理解ではいられなくなります。佐々井秀嶺さんが「インドでは、ヒンズー教徒に言わせるとカーストは3億の神が創った制度だ、といういいぶんになる」(参考リンク)とおっしゃっていたところと重なるのでしょうか。「神の口を借りて」という表現が、佐々井さんのおっしゃっていたこととすぐにリンクしました。

<100ページ ウパニシャッドの人間論 より要約>
ウパニシャッド宇宙論には三つの型がある
 1)神が宇宙の万象を自身の中から産み出したと見る生産説
 2)万象を個人の意識主体がその認識手段を用いて外界に投射した像であると見る一種の観念論
 3)自在神に内在する幻術的な性能によって作り出されたと見る一種の創造説
これらいずれにおいても、宇宙は大元と対等の位置には置かれていない。もしも宇宙万象の世界がそれ自身に絶対的存在たる資格をもつものならば、霊魂は永久にその支配を免れることができないであろうから。

霊魂の自由と宇宙という根源について、最後のところで妙に腹に落ちました。

<108ページ ウパニシャッドの人間論からの引用>
ウパニシャッド思想家の熟眠に対する礼讃は余りにも過大である。一体、かれらはかれらにとっても日常の経験にすぎなかったであろうところの熟眠に対して、どうしてこのような過大な評価をし得たのであろうか? ヨーロッパのある学者は、ウパニシャッドに説く熟眠の心境は、神秘思想家の忘我的体験の謎を解き明かすために用いた譬喩に外ならない、と解釈している。
しかし、これは少し行き過ぎた解釈であるように思われる。もちろんウパニシャッド神秘思想家に忘我の体験はあったに相違ないし、かかる体験に基づいてアートマンに関する種々の教説も生まれたのであろう。しかし、熟眠の教説の説者が考えていたのは、人間の日常の心理的経験としての熟眠であっただろうと思われる。アートマンがすべての人の自我である以上、何人にもこの不可思議なる存在を実証することは、すべての人にアートマンが具わり、従って解脱の可能性があることを実証するものである。

「熟眠の教説の説者が考えていたのは、人間の日常の心理的経験としての熟眠」というところで、すぐにラマナ・マハルシ師の言葉(参考リンク「不滅の意識」「あるがままに」)が思い浮かびました。神秘思想といわれても、はじめは「なんじゃそりゃ」と思いつつ読んでいて、「でもこの人、妙にヨーガの話をするなぁ」と思っていたのですが、やっとつながりました。

<111ページ ウパニシャッドの人間論 より要約>
・マーンドゥーキア・ウパニシャッドには「四足の自我」という思想が説かれている。足とは部分の意味で、四足とは「一切人足(覚醒意識)」「光明足(夢中意識)」「叡智足(熟眠意識)」「第四位(神秘意識)」の四つ。
・第四位なるものは古いウパニシャッドのいわゆる第三位たる熟眠位のさらに上に位置するもので、「忘我的意識」に相当する。
・神秘意識はここに至って明らかに独自の意識状態として立てられた。
・この第四位を立てる思想はヨーガ思想と結びついて発達したものだろうということは、マーイトリ・ウパニシャッドの句からも察し得られる。

この分類は初めて見たので、メモ。

<114ページ ウパニシャッドの人間論からの引用>
数論─瑜伽思想の流れをくむ新しいウパニシャッドは人格神を立てるのであるが、心理的、物理的世界は自在神の大能たる幻力(自性)によって作られ、その権力によって支配されている。個人の主体たる真我は、自在神の分身ではあるが、自在神の性能はもたない。しかし、彼はこれらの幻術所造の多元的雑多によって縛られない、自由な享受者(観照者)であり、主動者である。マーイトリによると、ひとはヴェーダ聖典の研鑽、達摩(カーストの義務)の遵奉、人生四期の生活完遂等によって元素の自我を「対治」した時、かの真我を証得し、これによって解脱を得るという。

マーイトリというのは、人名ではなく「マーイトリ・ウパニシャッド」のことであると思います。ここでも上部で紹介した「234ページ」で感じたことと同じことを思いました。ヨーガを学んでいると、ヴェーダ聖典カーストの義務の結びつきの堅牢さがついて廻る。それを、仏教の国の人として学んでいる。「日本人としてヨーガを学ぶこと」は、とても意味のあることだと思う。

<147ページ ウパニシャッド哲学の根本構造 より引用>
リグ・ヴェーダ宗教の末期にあっては、明らかに一元論的な思想が支配的であった。それは、当時の信仰が神々から去って祭儀そのものに向かったために、旧来の個性の鮮やかな人格神ではもはや人々の信仰をつなぎとめることができなくなったからである。かような祭儀中心の宗教意識の上に成立したものが開闢神話であるから、その中で歌われている神は唯一最高の神として描かれてはいても、実は祭儀そのもの、ないしは祭儀においても発現するものと信じられた、マナ的力の象徴にすぎない。

うちこはここで初めて「マナ」(リンクはWikipedia)という言葉を知りました。カルロス・カスタネダさんの本で読んだことを連想したほか、インドでステイさせていただいたSharma家で行なわれていたさまざまな儀式(参考儀式1、参考儀式2、参考儀式3)と、その普通に考えたらなんでわざわざ、と思うような儀式に対する家族の律儀なエネルギーに不思議な印象を抱いたことを思い出しました。そしてどのお寺に行っても、中で見るよりも「行った、という行為として靴を脱いだり手を洗ったりする作業」をするときに、彼らがなんか不思議なエネルギーを放っていて、その行動がとっても印象的だったと、同行した母も言っていたっけ。

<157ページ ウパニシャッド哲学の根本構造 1.ウパニシャッド哲学思想の起源 より引用>
(アタルヴァ・ヴェーダのなかで)生き死にする人間としての人間が、ともかく思索の対象となったことは思想展開の上で画期的な出来事であることを忘れてはならない。それは一方では、観察の眼が祭儀や咒法などの宗教的な世界から解放されたことを意味し、他方では、その思索の方向が外から転じて内へ向かったことを意味する。この二つの意味の持つ重要さは、これより後の正統派思想の展開の経過とともにますます明らかになる。われわれはまた、この神話のなかにインド観念論の遠い起源を見出すこともできる。

ここで一つの流れの切り替えがあるようです。

<171ページ ウパニシャッド哲学の根本構造 2.ウパニシャッド哲学と王族階級 より要約>
ウパニシャッド思想の成立には少なくとも三つの契機が必要であった。
 1)正統派バラモンの思想圏内における思想的展開
 2)外部の思想圏からの影響
 3)ウパニシャッド思想を展開し、大成した天才たち
3のなかでも際立つのはウダーラカ(Uddalaka)とヤージナヴァルキア(Yajinavalkya)の二人。

このへんの背景は、インドが哲学の国であることを真に実感していないと推測も及ばない領域。佐保田博士は日本の宝です。ほんと。ありがたい。

<181ページ ウパニシャッド哲学の根本構造 3.ウダーラカの実在論哲学 より引用>
 全編がウダーラカにささげられているチァーンドーギア・ウパニシャッド第六篇は、ウダーラカとその子シヴェータケートゥとの対話の形で彼の思想を叙述している。シヴェータケートゥは十二歳の時から十二年もの間或る師匠のもとで修行をし、ヴェーダ聖典の全部を学びおわって、二十四歳の時に意気揚々として帰宅したが、この若いバラモンの誇りは、彼を迎えた父の一言で、みごとに打ちくだかれてしまう。「おまえはそのように得意満面、学問を鼻にかけ、意気揚々と帰って来たが、次のような学問を学んだことがあるかネ。つまり、それを学べば、未だ聞いたことのないことも聞いたことになり、未だ考えたこともないことも考えたことになり、未だ知らないことも知ったことになる、というような学問をだネ」
 父ウダーラカがいうところの学問は、われわれの言葉でいえば、形而上学のことであった。形而上学がその探求の究極目的とするところは、まさしく、それを知れば一切を知ることになるような実在をとらえるにある。ウダーラカこそは一元的実在を存在論的な立場で理論的に追求した人として、真に形而上学者の名に値する人であった。

なんかこのお話に覚えがあるなぁと思ったら、過去に読んだ「ヒンドゥー教―インド3000年の生き方・考え方」にありました。上記のお話もびっくりものですが、「ヒンドゥー教―インド3000年の〜」で引用紹介した「梵我一如思想」も、すごい親子の話だと思ったものです。ちなみに、「というような学問をだネ」の「ネ」は佐保田テイストみたいです。"佐保田博士の意外すぎるチャーム"については、後日書く予定の別の本の紹介をお楽しみに。すごいよ。

<205ページ ウパニシャッド哲学の根本構造 4.ヤージナヴァルキアの観念論哲学 より引用>
カーウシターキ・ウパニシャッドは次のようにしるしている。
「そうして、この人が眠りからめざめる時には、喩えば燃えさかる火から四方へ火の粉がとび散るように、この人のアートマンから諸感覚器官が各自の持ち場(肉体器官)に応じて分散し、そして、これらの感覚器官から神々が分散し、神々から諸世界が分散した」

インドにはびっくりするくらい感覚器官を司る神様がいっぱいいるのですが、アートマンさん(いつも「引越し屋」を連想する…)についての学びの一つとして、メモしておきます。

<212ページ ウパニシャッド哲学の根本構造 4.ヤージナヴァルキアの観念論哲学 より引用>
現存在からの究極的解脱を努力目標とした点で、ヤージナヴァルキアは典型的な神秘思想家であった。しかし彼は、神秘的とよばれる特別な心理状態のなかに埋没したり、その体験の単純な叙述で満足したりしないで、われわれの日常経験のうちに、神秘的に深い意味を見つけ出そうと努力した。彼は神秘的経験と日常的経験との間に思想の橋をかけようと企てたのである。日常の深い意味をさぐり出そうとした彼の哲学的努力は、神秘体験の最も確かな解明をもたらした。彼は神秘思想と哲学とを、最も深遠な形で自己のうちに融和させた人物であった。 

この、ヤージナヴァルキアさんの喩える夫婦の話とか、「うーん、わかったようでわからない! でもなんか面白いぞ」という感じでした。佐保田先生は、なんとなくこのヤージナヴァルキアと自分が重なるような思いがあるのではないかしら。そんな気がしました。そしてうちこは、「ファミコン世代でも理解できるかもしれないヨーガ」について、ものすごく狭いニーズに対してでも、語ってみようかなという気になってきました。


ふー。さすがにこのクラスの本の紹介は、週末じゃないとできません。
最後に、これ系の本の紹介のリンクを張っておきます。意外とたくさん読んでいたので順番に迷いましたが、ヨガに近い→インドに近い→日本のヨガ の順にしました。著者さんもしくは主役名は敬称略。

ヨーガ根本教典佐保田鶴治
続・ヨーガ根本教典佐保田鶴治
ヨーガの極意 ― ヨーガスートラを体験するために小山一夫
ヨーガの哲学―パタンジャリの古典『ヨーガ・スートラ』200の格言をポーズごとに解明(ミラ・メータ)
インテグラル・ヨーガ―パタンジャリのヨーガ・スートラ
不滅の意識―ラマナ・マハルシとの会話(ラマナ・マハルシ)
あるがままに―ラマナ・マハルシの教え(ラマナ・マハルシ)
ヨーガとサーンキヤの思想―インド六派哲学 中村元選集 決定版
バガヴァット・ギーター(上村勝彦)
はじめてのインド哲学立川武蔵
ヒンドゥー教―インド3000年の生き方・考え方
ビックリ!インド人の頭の中―超論理思考を読む
冥想ヨガ入門(真言密教と禅に関すること)(沖正弘)
ヨガと神道山陰基央

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佐保田 鶴治
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