以前から辻先生バージョンは最後に読もうと決めていました。
という順番なので。
以下のかたはもともと学者さんではなく、いうなれば「ハンパなくすごい主婦」なので、年齢に関係なく最新と見ています。
訳文はもっと古めかしいのかと思いきやそうでもなく、karmendriya を「作業根」と訳したものは、アーサナをやりまくってから哲学の勉強に入っていった人間にはとてもわかりやすいし、学者さんシリーズの中では格段に「同じ単語の書き分けが細かい」と感じました。
たとえば、ヨーガニドラでおなじみの「サンカルパ」は4章19節と6章24節で少し違ったニュアンスで登場します。これが
- 鎧先生:「意向」
- 上村先生:「意図」
となっているところが、
- 辻先生:4章19節では「意図」6章24節では「意欲」と書き分けられています。
うわー。細かいとこ、やってくれてるわぁ〜。と唸る。こういう仕事、たまんないっすね。
ちなみに嫺玉さんは4章19節では省略され、6章24節では「妄動」という単語をあてられているのですが、特に6章24節は語順の並び替えも含めてかなりいじった感があります。ただそれが嫺玉ミラクルを生みだしてもいるので、翻訳文としては微妙、詩の訳文としては絶妙。
9章25節にも訳比べがおもしろい「ブフゥータ」という単語があるのですが
- 鎧先生:庶物
- 上村先生:鬼霊
- 燗玉さん:自然霊や幽鬼
はい、ここで大御所はこう来ます。
↓
- 辻先生:妖精
かわゆい☆いいのか!
マニアックすぎますか。どこ読んでるんだよって感じですよね。もっと重要な節があるだろうが! と。まじめな感想は後で書くので、もう少し書きたいこと書かせて。
辻先生の訳のいいところはたくさんあるのですが、なかでも「冒頭の2章に見られるアルジュナのクレーマー気質みたいなものがよく出てる」というのがあります。結局最後までかなり厚かましいですからね、彼(笑)。辻先生の訳は、この軸がぶれていない。上村先生との対比で見てみましょうか。
(2章5節:辻訳)
何となれば、大威力ある師匠たちを殺すことなくんば、むしろこの世において乞食による食物を味うことこそ勝りたれ。
されどここに、たとい彼らは利益を欲する者たるにせよ、師匠たちを殺さんか、われは血に汚されし、享楽を味わうにいたるのみ。
(2章5節:上村訳)
まことに、威厳に満ちた師匠たちを殺さないで、この世で施しものを食べる方がよい。
有益なことを望む師匠を殺せば、まさにこの世で、血にまみれた享楽を味わうことになろう。
ここは序盤なのでアルジュナはあまり大人っぽくなりすぎず、むしろアムロ・レイっぷりを爆発させた訳のほうが、個人的には好み。辻訳の「むしろ」の入れ方や「乞食」の単語の使い方は、性格のにじませ方として、味付け濃い目で好きです。ちなみに2章11節は上村訳が「分別くさい」という語の導入により、かなり絶妙な訳になっています。上村先生はたまにとんでもないミラクルを出すからなぁ。4章22節の「たまたま得たもの」とかね。
そんなアムロ・レイなアルジュナが、11章で「クリシュナおじたんが、脱いじゃう」シーンを経てゴロニャーンとなる度合いがこれまた訳者によってわかれるところ。辻先生はすごいですよ。この場面を経てもまだぶれない、アルジュナのクレーマー気質! ここは、上村先生バージョンを先に書きましょう。
(11章45節:上村訳)
未曾有のものを見て、私は喜んでいる。しかし、私の心は恐怖に戦慄(おのの)く。そこで神よ、私に前と同じ姿を示してください。お願いです。神々の主よ。神の住処よ。
(11章45節:辻訳)
いまだかつて見ざりしものを見て、われは満悦せり。されどわが意(心)は恐怖によりて戦く。神よ、われに(前と)同じき形相を示せ、恵みあれ、神々の支配者よ、世界の安住所よ。
「示せ」って、命令してますからね(笑)。ギーターは宇宙人が喋っているような文法なので、この「お願いモード」の度合いは訳者の言葉にかなり依存することになります。ここで、物語としてはゴロニャーン感があったほうがいいのかもしれませんが、ギーターにおけるアルジュナは「人間はエゴによる判断の正当化をどこまでもあつかましく行なうものだ」ということを示す役も果たしていると考えた場合は、作者の意図に寄った視点かと思います。
ほかにも辻先生の訳だとアルジュナが左利きであることが明確に書かれていたり(11章33節)、萌えポイントはいろいろあるのですが、全般文体に「何となれば」と「いわんや」が多く
辻先生、親鸞が大好きなんですね!
というのがよーく伝わってきます。
1章13節でバンド演奏が始まる際に「かまびすしかりし」という表現を使われているのも萌えます。
もっと普通に読めよ、自分。(はい。←二人羽織)
さて。ここからはまじめに感想を書きます。
この本の素晴らしいところは、本編よりも注釈と解説がいい。これが、すごくいい。注釈には、「解釈にこう迷ったが、こっちをとった」というのが記述されていて、解説部でその背景が説明されています。
たとえばよく出てくる「ヨーガ」という単語一つをとっても、
「バガヴァッド・ギーターにおいてヨーガの意味・用法は多岐に分れている。バガヴァッド・ギーターの中にはこの語およびこれからの派生語が頻出し、修行同ならびに解脱に関する教義の中核に触れている。
とし、
- 実習・実践、修練、解脱道
- yoga=bhakti, kukta=bhakta「誠信を有する者」
- 坐法・観法(ヨーガ観法)、心統一
- 神のヨーガ
- その他
の項目に分けた上で、以下のような説明をしてくれています。
■394ページ ヨーガ(yoga)の語義 より
二、yoga=bhakti, kukta=bhakta「誠信を有する者」
バガヴァッド・ギーターがバーガヴァタ派の所産であることを思えば、同派における特殊意義に従い、ヨーガがしばしバクティ「誠信」の同意語として用いられることを認めねばならない、従って yukuta は bakta と同じく、「誠信者」を指す、本書においては、 bhakti に関連するコンテキストにおいてこの意味を採用した(例えば7章17節、12章2節)。ただし直後に bhakti が用いられているときは、重複を避けて「敬愛」と訳した(例えば13章10節)、しかし yukta が「カルマ・ヨーガによりて心統一せる」を意味するか、或いは「誠信を有する」を意味するかを決定し難い場合も少なくない。
バーガヴァタ派の件は別途詳述します。ギーターは「yukuta」の意味を都度自分で置き換え・選べるようになってくると「読めた」という段階に入ってくるんだろうな、と思っていたので、ここ部分は勉強を続ける上ですごく励みになる解説でした。
梵我思想の介入ポイントの説明を注釈で都度都度入れてくださっているのですが、まとめとして以下の説明は「うまいなぁ」と思いました。
■356ページ 「田」(kestra 肉体)と「知田者」(ksetrajna 自我)より
バガヴァッド・ギーターは肉体と自我とを、ぞれぞれ「田」と「知田者」と称し、第13章においてその関係を詳説している。しかしこの場合にも、ウパニシャッドの梵我思想との折衷が行なわれ、クリシュナを一切の「知田者」と一致させ、自我と宇宙我(ブラフマン)とを同一視し、梵即一切の観念を反映している。
バガヴァッド・ギーターはサーンキア哲学の各論を知りつつも、何ら組織的説明を与えず、厳格な意味における述語と普通語との限界も明確でなく、古典期のサーンキアに知られる「五唯」を挙げない(13章5節参照)。しかし「田」と知識とブラフマンとを知り、神に帰依する者は、神の本性に達すと言っている。
上記の説明のほか、18章46節には「前半は梵我思想。しかし全体としては神クリシュナの崇拝を意味する」という註釈が加えられたりしています。
辻先生バージョンはかなりサーンキヤとの関連を掘り下げてくれているので(世はヴェーダーンタ主流ですからのぅ)、読んでいてとても楽しかったのですが、解説部にもたまらん内容が満載でした。
■328ページ ギーターと他の哲学宗教諸派との関係 より
バガヴァッド・ギーターの哲学的背景がサーンキアにあることは明瞭であるが、その最も著しい相違は、根本二元の上に最高神を置く点で、元来無神論を本領とするサーンキアはここに完全に有神化されている。この傾向は大叙事詩の他の部分にも著しく、「有神サーンキア」の名によって知られている。しかしこのような有神主義をもって、サーンキア哲学の原形と考え、バガヴァッド・ギーター等の傾向は古典形への過渡時代に属するものとする見解には賛成し難く、むしろ折衷混沌の所産と思われる。
「むしろ折衷混沌の所産」というのは本当にそうであるよなぁ、と。しみじみ。ギーターは「よくここまで折衷したよね!」という内容なので。
ギーターはそたまに章自体にタイトルをつけているものもあって、第二章はたまに「サーンキヤ・ヨーガ」とされていたりもするのだけど、それを避けたものも多いです。で、ギーターにおける「サーンキア」という語の使われ方は「理論」そのものというくらいの扱いが多い中、辻先生はここを詳述してくださっております。
■398ページ ジュニャーナ・ヨーガ(jnana-yoga「智道」)より
バガヴァッド・ギーターはサーンキア哲学の教義に従い、自我とプラクリティを区別し、霊魂と肉体との関係を厳密に認識することを要求する。この知識を「サーンキア」と称し、サーンキア論者の「ジュニャーナ・ヨーガ」と呼んでいる。
すっきり!
で、この先生の手にかかると、ヨーガとサーンキヤの違いの説明もこんなに鮮やかになる。
■328ページ ギーターと他の哲学宗教諸派との関係 より
(ヨーガ・スートラでは)サーンキアにおいて精神作用を司る三内具すなわちブッディ(「理性」)とアハンカーラ(「我執」)とマナス(「意」)との総括して心(citta, cetas, manas)と呼び、ブッディとマナスとの区別は理論的に認められるのみである。
しかし元来無神論的サーンキアに対し、イーシュヴァラ(Isvara 自在神)を認める点においてこれと異なる。この神は一切智を有し、煩悩なく、常住清浄とされるが、創造支配に関与せず、聖音 om なるバガヴァッド・ギーターの神とも大いに異なり、ヨーガ哲学の核心には触れず、ただ解脱を志す人に恩恵を施すのみである。
ヨーガ・スートラでは「ブッディとマナスとの区別は理論的に認められるのみ」って、ほんとそうなんだよなぁ。サーンキヤ・ベースで読むと、いやいやいやそこ大事なところだから、ちゃんと語ろうよ。と思ってしまうのだけど、ある意味ヨーガ・スートラはサーンキヤと仏教の中間をうまくやろうとしているんだよなぁ。そしてギーターはサーンキヤとヨーガとヴェーダーンタを折衷してる。すごい編集力。
以下はちょっとマニアックになりますが、
■318ページ クリシュナとバーガヴァタ派 より
以上推定によって記述したクリシュナ崇拝の変遷を、年代的に区別することは困難であるが、クリシュナとヴィシュヌとの一致を示唆する文献の証拠は、少なくも西紀前四世紀にさかのぼる。筆者の見るところによれば、その最古の典拠は重要なヴェーダ文献の一つであるマイトラーヤニー・サンヒター(MS ?{2}.9.1)で、ケーシャヴァ(Kesava)とナーラーヤナ(Narayana)とヴィシュヌとを同一視している。ケーシャヴァはクリシュナの頭髪に由来する特徴ある呼称で、バガヴァッド・ギーターにもしばしば使用されている。ナーラーヤナという語はバガヴァッド・ギーターにもしばしば使用されている。ナーラーヤナと語はバガヴァッド・ギーターには見えないが、クリシュナおよびヴィシュヌの異名として非常に普遍なものである。この箇所に倣ってマハー・ナーラーヤナ・ウパニシャッド(MNU, Athvarvana-rec.?{3}.16=TA X{10}.1.6)も、ナーラーヤナとヴァースデーヴァ新層に属する追加部分といえども、西紀前四世紀を下るものとは思われない。次にパーニニ(おそらく前五世紀)は、ヴァースデーヴァおよびアルジュナの崇拝者を、それぞれ Vasudevaka, Arjunaka と 称することを教え(4.3.98)パタンジャリ(前二世紀中葉)はこの箇所に対する注釈において、ヴァースデーヴァをバガヴァットの異称とする説を伝えている。もちろんパーニニの時代に、ヴァースデーヴァがヴィシュヌと同一視されていたか否かは不明であるが、その文典中に特別の一規則を設けている点から判じ、ヴァースデーヴァカすなわちバーガヴァタ派が、ヴィシュヌ権化説によって正統バラモン化されていたものと想像される。
このブログで紹介していないギーターがいくつかあるのですが、理由は上記の流れが説明できなかったため。
こういうギーターもあります。嫺玉さんも参照されてます。「ジョージ・ハリスンが好きそうなギーター」っていうと、ちょっとニュアンス伝わるかな。
最後に、わたしが解説部でもっとも素晴らしいと思った部分を紹介します。
■407ページ 諸道の関係 より
バガヴァッド・ギーターが排斥したのは哲学的知識そのものではなく、いわんや神性の認識を伴う解脱智ではない。智道に名を借りて義務的行為から逃避しようとする独善的遁世主義である。この意味において行作は無作に勝り、行作の実修はその厭離に勝ると主張されるのである。
「カルマ・ヨーガに名を借りて利潤を生み出す行為から逃避しようとするのもまた独善的遁世主義である。」と言い換えられる文体になっているのが、いい。
「バガヴァッド・ギーター」はなんでこんなにも各派の骨子を盛り込んでいるのか、というのがずっと疑問だったのだけど、さまざまな思いが溶解しました。
余談ですが、昨年芥川賞を受賞した『abさんご』の黒田夏子さんは、辻直四郎さんの娘さんなんですね。ノラ・ジョーンズとラヴィ・シャンカールの父娘関係を知ったのと同じくらい驚きました。
★おまけ:バガヴァッド・ギーターは過去に読んださまざまな訳本・アプリをまとめた「本棚リンク集」があります。いまのあなたにグッときそうな一冊を見つけてください。