ヨーガの哲学を学んでいるともれなくついてくるサーンキャ哲学ですが、かねてより「なんかヘン」と思っているところがありました。自分で説明をするときには、あえてマイトロジカルな要素や「男性原理と女性原理」の説明のいらない喩えを用いてきたのですが、「タントラ叡智の曙光 ― タントラ仏教の哲学と実践」で、初めてその部分への指摘を読むことができました。
サーンキャ哲学のプルシャ・プラクリティが「男性原理と女性原理」というのが感覚的にしっくりこないと思う人は、実は女性にけっこういるのではないかと推測するのですが、この点についての指摘を見たことがありませんでした。わたしが思うような「なんかヘン」というようなことを、男性はあまり思わないのかな。
「プルシャとアハンカーラを切り分けたところまでは、すごいなぁと思う。 が、プラクリティの活動理由は、プルシャの "ため" といわれてもピンとこないぞ」と、インド哲学者のもうこの世に居ないオッサンたちにモノ申したい気分であったところに、ギュンター博士が、かなりおもしろい例を使ってツッコミをいれているのを発見しました!
少しずつ紹介します(以下いずれも151ページ「質問と答」より)
ヒンドゥー教タントラは古典サーンキャの哲学体系を継承しているのですが、サーンキャ哲学は、男性原理のプルシャと女性原理ないしはシャクティ原理のプラクリティを認める二元論に立脚しています。プルシャは一般的に「純粋精神」、そしてプラクリティは「物質」と訳されます。これは西洋で言うところの精神と物質という二項の分類で理解してはいけません。西洋で考えられている精神と物質はともにプラクリティに含まれます。
プラクリティはまるで無用の用語です。この語に相当する概念は、男性優位の心理学になら具合よくぴったりくるでしょう。サーンキャ哲学によれば、プルシャはその光をプラクリティに投げかけて、そこから進化の過程が開始されるとします。
冷静です。
このあとに続く、仏教視点からの鋭い指摘もたまりません。
この考えには紛れもなくいくつかの困難があります。プルシャは永遠の実在として定義されています。もし、そうだとすれば解脱ということは起こりえません。というのも、プルシャが永遠の実在であることは、彼がその光を投げかけてプラクリティをたえず刺激し続けることを意味します。男性の女性に対するこの優位性に加えて、すべての認識、すべての行為、すべてのあらゆるものがプラクリティの内に起こるのだとしているのですから、この哲学は論理的な説得性を持ちえません。
解脱の主体のたて方に無理があるんじゃないの? と。なんか正しすぎて、格闘技にシナリオがあるのではないかというようなツッコミ…。もうやめてあげてー!
もっと斬って〜。気持ちよくなってきたから! と思っていたら、、、
しかし、それでもいくつかの利点はあります。プラクリティを純質(サットヴァ)、激質(ラジャス)、暗質(タマス)という三つの成分に分析することは、個人的な心理傾向の差異をうまく説明します。ある人は他の人に比べて聡明であったり、怠惰であったり、怒りっぽかったりしますが、これらをうまく説明できるのです。
やだ! 博士ったら、ジゴロ〜。ヨーガを続けてしまう理由は、まさに体感的なここにある。
と思いきや、やっぱり斬られる。(だったら最初から斬ってよ)
しかし、形而上学的にはこの説はまったくナンセンスです。解脱を達成するために用意されたはずのこの教説を実際に実行することはできません。プルシャとプラクリティの分離が始まると解脱がもたらされると説くのですが、プルシャが永遠の実在であるならば、それは不可能です。
ヨーガでがんばっても浄化止まりで解脱できないだろほら〜、と。またツッコむ。きらいではないしつこさです。でもね、これで終わらないところが博士のすごいところ。
このこと(プルシャが永遠の実在ってことになると解脱できない)は後にパタンジャリのヨーガを奉ずる人々からは理解されました。その人々は、イーシュヴァラという超プルシャ、すなわち主宰神を想定することで、この難点を解消しようとしました。しかし、これとて背後の存在を無数にたどるようになる道筋を開いたにすぎないものでした。最初のものが十分でないから二番目のものを考えるのだとすれば、いつ三番目、四番目、五番目を必要としないことがありましょう。
ヨーガ・スートラのイーシュワラは明らかに「その件についてのソリューションなら、ございます」というような流れで登場するし、バガヴァッド・ギーターではちょっと定義が強引だった(オレオレ過ぎな)「超プルシャ」のバージョン違いという感が否めないのは確か。パタンジャリは編集者として優れていたんだよね、っていうスタンスでヨーガ哲学に親しんだほうが、おかしなことにならない気がします。おかしなことというのは、俗の中で精神と物質を分けてわざわざ浄化を宣言するような、そういう苦しさ。
さて。すごいのは、このあとです。
博士の辛口が止まらない。火が出てる(笑)。
(上記の説明に続くQ&Aで)
Q:プルシャとプラクリティとの間で交渉として考えられているものはどのようなものであり、それはどのように終末を迎えるとされているのでしょう。
A:プラクリティはシャクティと同じですが、それはプルシャに利用されるのです。比喩的に言いますと、男性が女性にダンスをしろと言って、色々と滑稽な仕草をさせるようなものです。やがて男が「もう十分堪能したから、おやめ」と言います。それから、男の言うに、「これで僕たちは自由だ(解脱した)」と。ちょっと幼稚な譬えですけれどね。
博士のこのダンスの喩えは「サーンキヤ・カーリカー(イーシュヴァラクリナによる教説)」の59節を元に、それを少し強調したものなのですが、キモチワルさは、まさにここ! (追記参考:サーンキヤ・カーリカー第59節)
前々から「プルシャ=ネクラな輩の覇権欲」て感じがしてたのよね〜ぶっちゃけ。いままで実は、「ここは男性原理を笑い飛ばす、高度なギャグなんじゃないの?」と思ってたのだけど、わたしの頭がアホなのでそう思っちゃうのかと思っていました。
ガンダムの
あなたならできるわ。(セイラさん)
おだてないでください!(アムロ)
をいつも、思い出すんです。セイラさんはユーのアハンカーラの暇つぶしにのために言っているのではなくて、「いいから専門家として仕事しろ」というのをオブラートに包んでいるのだけど、セイラさんの役どころって、ホント大変……。
これがイスラームだと、アムロは「おだてられたら、もっと上手にできちゃうじゃないですか!」ということになる(笑)。コーラン(アッラー)の「いやもうほんと発情するんで、目の前で肌出して踊るのとか、やめてもらえますか。隠しといてください」という男性原理の表明は、進化した人間という感じがしてステキです。
とにかくこの博士のコメントで、積年のモヤモヤが晴れました。インド思想は各派の立場で説明が補強されていくので、図にしながら理解を進めようとする過程で「う〜ん、ここは苦しくないか?」と感じることがありつつも、ギブアップしていた。
そして、このサーンキャと仏教の板ばさみの苦しさのなかでソリューションの出し方がすばらしかったパタンジャリさんたち(パタンジャリ・グループ)の編集者としての力量はすごいものだと、あらためて思いました。