お友達のユキちゃんちの本棚から、「世界を信じるためのメソッド」と一緒に借りてきました。これは、読んでびっくり。展開のしかたに驚く。すごい本です。中学生向けに書かれている設定なのですが、大人も読むべき一冊。うちこはこのブログでインドのカーストのことについて何度も書いてきたけれど、もっとも身近な自国の歴史のほうが知らなかったこと、恥ずかしく思います。
日本の教科書でガンジーの真実に触れないことについて、それは触れると長くなるからというのもあるのだと思うけど、日本の差別の問題を棚上げして語りにくいこともあるのかな、くらいにしか思っていませんでした。日本の小中学校で、日本の差別の歴史について教えるのであれば、まずこの本を教科書にしたらいい。そのくらいの良書。
まずこの本は、「お魚は切り身のほかに、まる一匹スーパーに置いてあるのを見るけれど、お肉はないよね。大きいから? それだけじゃない」という流れから始まります。そこから屠殺場の仕事の流れの説明に入り、その仕事の背景に迫っていく。ここからは、もう目が離せない展開。周到に脚本の流れが練られた映画のように引き込まれます。
中身を少しだけ、引用紹介します。
<63ページ お肉はどこからやってくる? 「人間」という生きもの より>
動物園に行ったことはあるよね。どこにでもサル山がある。たくさんのサルたちが暮らしている。仔ザルも多い。ならば数がもっと増えてもいいはずだと思わないかい? 不思議だね。サル山のサルは、いつも数が一定に保たれている。なぜ全体の数は増えないんだろう?
考えよう。制限時間は十秒。○ ○ ○ ○ ○
分かったかな。理由は定期的に間引きをしているからだ。間引きされたサルはどうなるのか? 他の動物園で引きとってもらうこともあるけれど、動物実験に回されるサルも少なくない。それから、何らかの事情で世話を放棄した飼主が犬の処理を頼む「動物愛護センター」では、犬たちは皆、炭酸ガスやバルビツール注射で殺される。ところが人によく馴れた犬は、時おり大学の実験室や企業の研究室などに運ばれて、そこでいろいろな実験の材料となる。人に馴れているほうが実験しやすいからだ。生きたまま切り刻まれたり何かを身体のなかに埋め込まれたり、何かを飲まされたり、何かを目の中に入れられたりして、どんな症状が現れるかを観察されるわけだ。もちろん実験が終わったらすぐに処理される。つまり殺される場合がほとんどだ。
ビーグル犬っているよね。ペットとして大人気だけど、動物実験でも大人気の犬種だ。身体は丈夫だし、性格が従順で扱いやすいからだ。
最近では豚の臓器を人間に移植する技術も研究されている。豚の臓器の大きさは人間とほぼ同じで、移植にはいちばん適した生きものらしい。
そんな動物実験など、今すぐ止めるべきだと思うかい? でもこれをしないと、予想もしなかった事故が起きる可能性はたしかにある。ボディシャンプーを使っていたら、ある日突然、全身の皮膚が真っ赤に炎症を起こしたり、新製品の目薬を使ったら、目が見えなくなったりするかもしれない。
JR福知山線脱線の事故のときにも思ったのだけれど、完璧と安全を追求するために犠牲になっていることが、いっぱいある。動物だけじゃなくて、人のこころもそうだと思う。
<66ページ お肉はどこからやってくる? いのちを食べるということ より>
僕らはハエや蚊を殺す。ゴキブリやシロアリを駆除する。畑や田んぼでは大量に農薬を撒いて害虫を殺す。
虫たちが悪いわけじゃない。ただ彼らの存在が僕らにとって迷惑なだけだ。だから僕たちは虫を殺す。君はカブトムシを叩きつぶせるかい? 僕にはできない。でもゴキブリなら、丸めた新聞で叩きつぶすことができる。なぜだろう。不思議だね。いつのまにか僕らは、ハエや蚊やゴキブリは殺されて当たり前だと思ってしまっている。
前に書いた思考の停止、要するに麻痺だ。この麻痺がないと生活は維持できない。確かにそうだ。でも時には、この麻痺について、この矛盾について、少しくらいは考えたほうがいい。
ちょうど半月くらい前に、ゴキブリのことを書いたけど、うちこも不思議なんです。季節の風物詩、と書いたけれど、ゴキブリはこの季節に生命力を発揮して、季節とともにある。うちこがジャイナ教の教えにひかれるのは、ゴキブリと出会ったとき。てんとう虫みたいにかわいい柄がついていたら、どうだったんだろう? などと思うこともある。カラスにも、同じようなことを思う。
<85ページ 僕たちの矛盾、僕たちの未来 僕たちの「弱さ」の歴史 より>
室町から江戸時代にかけて、被差別階層の仕事は、様々な形で発展する。特に、河原者などと呼ばれる人たちは、芸能や芸術面において多大な才能を発揮した。龍安寺の石庭や、伏見城や銀閣寺の庭園など、中学や高校の修学旅行のコースでもお馴染みのこの文化遺産は、彼らの手によって創りあげられたものが多いんだよ。
(中略)
こうして村落共同体からいったんは排除された人たちは、ほかの人たちが嫌がる仕事をやりながらも、芸術や専門技術などで才能を発揮して、当時の社会にとっては、なくてはならない職能集団となっていく。
やがて豊臣秀吉が全国を統一する過程と平行して、農民の下に「カワタ」と呼ばれる階層が置かれ、制度として固定化される。他の地域との婚姻や交流を厳しく禁じられた彼らは、村から移動することさえ許されなかったという。
この「カワタ」身分の固定化と蔑視は、数にすれば二百万人の武士階層が二千八百万人の民衆を支配した江戸時代に、士農工商の身分制度の最下層に置かれた「穢多・非人」としてさらに強化され、現在の部落差別へと続いている。
……書きながら何だか嫌になってきた。人ってつくづく愚かだね。こうして支配する側から一方的に押しつけられた身分や序列を、いつのまにか信じ込み、差別や迫害することが当たり前になってゆく。ちなみに被差別階層の人たちは、自分たちのことを東日本では「長吏」と呼び、西日本では「かわた」と呼んでいた。「穢多」は押しつけられた呼称だ。
幕府は強引なだけじゃなく、巧みでもあった。序列としては「穢多」を「非人」の上に置きながら、「穢多」は子孫代々その身分からは抜けられないとしたうえで、「非人」は一定の条件を満たせば、農民や商人にもなれるとの仕組みにした。この施策の、何がいったい巧みなのか、君には分かるかな? 僕たちの、最も弱くて、最も醜い部分が現れている。そして功名に利用されている。これは難しい。
制限時間は三十秒。○ ○ ○ ○ ○
正解を書くよ。穢多は序列を根拠に非人を差別し、非人は農民や商人に戻れる自分たちを、穢多より上だと考えた。つまり互いに、「あいつらよりはまだマシだ」とする感覚を持たされたというわけだ。こうして身分制度は、ますます強固なものになってゆく。
蔑まれるから蔑む対象を人は探す。哀しい話だ。こうして差別は差別に連鎖する。いじめられっ子は、自分に代わっていじめられる対象を必死に探す。
僕たちの最も弱くて、最も醜くて、そして最も切ない部分だ。
企業の中にも、これはある。性別は関係ないのかもしれないけど「覇権欲」によって動かされるそれを、うちこはよく職場で「また三国志がはじまった」などと言ったりしますが、まさに秀吉の時代の影にあったこの考え方と同じ。戦国武将っていうとかっこいいみたいだけど、うちこは、人が一緒に働く以上は、ともに歩む「西遊記」のほうがいい。このことを先日隣の席の人に話したら、「ちょっとしたビジネス本が書けそうなポリシーじゃない」だって。
そんなにいろいろ考えて言っているわけではないのだけれど、「はたらく」という言葉は、神道の教えによれば「"はた" を "らく"にする」という由来らしい。それなのに、「"はた" が混乱しても、"おれ" はこの状況が気持いい」なんて選択を目の当たりにすると、せつない。
そうそう、この本の中には、アニミズムにもちょっとだけ触れていて、「不浄」とか「穢れ」という考え方にも触れている。そのままインドの話に置き換えられそうな内容だけれど、インドの差別は神が創ったもの。日本の差別は人が作ったもの。ここが、ちょっとちがう。
忘れていた命の食べ方
すばらしい
難しい問題
日の目を見て欲しかった・・・。