お友達のユキちゃんちの本棚から借りてきました。この速水由紀子というジャーナリストさんは小説も書いていて、小説家のときは桜井亜美さん。同一人物らしいのです。小説家としてのお名前のほうが有名な気がします。桜井亜美さんの本は一冊くらい、なにか読んだことがある気がしますが、そのことはこの「速水由紀子」さんという名前でのこの本を読んでから知りました。
2006年の本なので、出てくる話題に時代を感じます。団塊ジュニアと書かれている世代は、まさに自分が当てはまる世代。
何箇所か、気になったところを紹介します。
<14ページ はじめに より>
ミクシィやサイバー企業の清流などを見ていると、この世代で「ネット<リアル社会」のバランスが微妙に逆転しはじめるのは、そう遠いことではないかもしれない。
団塊ジュニア世代のもう一つの大変化は、格差・階層化に対する、驚くべき無抵抗さや諦めである。彼らは社会を動かすシナリオに対して鮮明に異議を唱えることも、シナリオを書き換えよう、という確固たる動機づけも持たない。ただ与えられた現状の中で「できるだけ快を求め。不快を避ける」という、ミクロなモチベーションが行動の主流になっている。
不満を言うだけ「元気あるじゃん」くらいのテンションですね。
<95ページ 第3章 本当は階層化が大好き!! な日本人 グローバル系はみんな脱日本人を目指す より>
恐らく今の日本で何かを大きく変えたり改良したりするためには、アメリカンなメンタリティとコミュニケーション能力は必須なものだ。なぜなら日本人のローカリズムは「変えないこと」「つながること」の方向に働き、それを善となすからだ。ではこのローカリズムの中に、学ぶべき点は何もないのか。
いや、実はこの「つながり」というローカル・コミュニティの意識は、「パブリック」につながる、捨ててはいけないものなのだ。
日本人のローカリズムは「変えないこと」「つながること」の方向に働き、それを善となす、というのは同感。レイアウト変更して、よくしたつもりが「使いにくい」と戻すことになるサイトとか見ると、そう思います。戻すだけ偉い、というのもあるけど。
<102ページ 第3章 本当は階層化が大好き!! な日本人 「下流社会」「格差社会」の実態 より>
いくらグローバル化が進もうと、基本的に農耕民族である日本人が、精神的に狩猟の「弱肉強食」の原理に同化するのは、そう簡単ではない。当然のことながら、この変化に順応できなかったり、適応を拒否する人々も存在するのは当たり前だろう。
競争に勝ちあがるより、周囲の人々と助け合って生きたいと考える人々もいるし、つながりあって生きることに価値観を見出す人もいる。最近の階層論は、こうした人々を「無能」呼ばわりし、「だから下層に生きるしかないのだ」と決めつけているような懸念が、私の中で非常に強まっている。
これ、食事とか運動もそうですよ。
<134ページ 第3章 本当は階層化が大好き!! な日本人 「つながりの死」という試練 より>
ニッポン放送株を買い占め、フジテレビを吸収しようとしたホリエモンへの、強い反発や抵抗も、突き詰めていけば企業の精神風土やつながりの死に対する、必死の抵抗だったとも言える。だが、これら米国的なM&Aへの抵抗感を持たない起業家が増えるにつれ、こうしたスピリットの分断は日常茶飯事になるだろう。
だからこそ、将来に不安を感じる若者たちは、いつか死を迎える「つながり」ではなく、サッカーやミクシィ、オタク・カルチャーという、システムさえ回り続ければ不滅のコミュニティに帰属することを選択する。
彼らはこう感じている。コミュニケーションが下手で競争意欲に乏しくても、社会的に貢献するボランティアに参加していたり、善きネットワークのために尽力している人間も「敗者」「下流」なのだろうか? あるいは経済効率には関心がなく収入は少なくても、「人のためになる仕事をやりたい」と考えている人間は、どこに居場所を見つければいいのか。
わたしはサラリーマンのあからさまな上下のコミュニケーションが至極ダメなので、競争意欲はとても乏しいのですが、「人を悪く言うことでものさしをつくる」「本質的に生み出す幸せの性質が違う」議論を展開する人には、それを分解する議論をするので、怖がられることがあります。同じ人間でも、見方によって「強く」見えたり「やる気がなく」見えたりすると思いますが、「発言しないと決め込む」とか、自分で制約を作るようなことをしない限りは、上流も下流もないと思います。
毎年いろいろな流行語が生まれますが、差別的な用語が蔓延するというのは、普通に驚くべきこと。昔のアニメとかドラマに制約が増えているのに、日常会話では差別表現が増えている。不思議です。





