うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

本を読む人というだけではつながりたいと思わなかった理由

よくSNSで見かけるハッシュタグに #〇〇好きの人とつながりたい というのがありますね。ほんと?と思うけれど、あれはそういうことをいちいち考えないで使うもの。わかってる。牧歌的にいきたいのですよね。わかります。

なかでも「本が好き」「読書が好き」について、ずっと前から思っていたことが実感として見えやすいできごとがあり、少し考えてみました。


わたしは本を読むというだけではそんなにつながりたいと思わないので、「本」をきっかけに話しかけられたら次のネタを待ちます。わたしがつながりたいのはもう2,3階層掘ったくらいのところにいる人。
そうなるとせめて著者名か、同じ著者のこういう種類の…、というふうに絞られた感じになります。具体的にいうと江戸川乱歩のド変態もの、夏目漱石の勘違い高等遊民もの、ヘルマン・ヘッセのスピリチュアルもの、中勘助のインドもの…くらいまで細分化されたところで話せると楽しい。同じ作家だから全部好きということはあまりないので、少し掘ったところで話が合うとうれしくなります。


そして近ごろ、わたしはあらたな欲に気がつきました。読みながら出てきた自分のヘドロをうまく文章化したものを読むと、その人に一目置くようになるのです。これは広義の「つながりたい」では? めっちゃつながりたいんじゃん!と、自分で自分につっこみを入れなければいけない。他人の感想を読んで、「おお、同士よ!」みたいな感覚になることがたまにあるんですよね…。

 


先日、友人のブログを読んでいたら小説の感想が書かれていて、自分的に大発見と思うことがありました。
わたしもその小説を6年前に読んでいて話はざっくり覚えていたのですが、そのなかのドロリとした部分が、友人のブログによって思い出され、そこからさらに同じテーマで書かれた別の小説を想起しました。友人が感想を書いた小説をA、わたしがつられて思い出した小説をBとします。

わたしは毎年この時期になると、小説Bにある主人公のモノローグを手帳に書き写していて、ことあるごとに読み返しています。それは忘れてはいけない気持ちを再認識させるためで、人間関係の中でいちいち傷ついて立ち止まらないために、自分の人生を前に進めるためにメモしているもの。小説Bは少し自己啓発のような要素がある小説です。

そしてそれを思い出させてくれた、このたび友人が感想を書いていた小説Aは国語の教科書に載りそうな大正時代の日本の純文学。
AとBは以下です。

 

 

この二つはとても似ています。

わたしが手帳にメモしているのは「アルジャーノンに花束を」のなかの言葉です。ラッピングがオシャレなために保存しておきたいと思ったのか、結論までのプロセスに別の生き物を挟んだ仕掛けが効いたのか、リアルタイムで出版された時を知っているからなのか。


先日「鼻」について書いていた友人は大正時代の芥川龍之介の言葉を、わたしがダニエル・キイスの言葉を手帳にメモしたのと同じように、自身の心に当てはめていました。その文章を読んで、その人が表面的な流行りに左右されない安定した目線を持っていることを頼もしく思い、同時に自分はそのような感想を求めるめんどくさい人になっていることにも気がつきました。
これじゃあ、気軽に本や読書の雑談が楽しめないわけです。自分が嫌う読書家のような状態に、まさに自分がなっていました。がーん。

 


この逡巡のあいだに、わたしには「本が好きだ読書が好きだという人=自分は雑でミーハーな人間ではないというプレゼンをしている」という解釈のベースがあることにも気がつきました。

でも、本を読む話をしたがる人のモチベーションって、そういうことだけじゃないと思うんです。「勉強してなくないんだぞ」という自衛パターンもある。そもそも実際、わたしがそうだったはずなんです。


ヨガのインストラクターというのは、なぜか知性の面で見下されがちです(詳しくは以下)。


見下されるコミュニケーション自体はよくあることなのでさておき、それはそれとして言われたことや知らない用語は理解できるようにしておこうと、本を読み続けているうちに読書が習慣化されました。
今はどちらかというと自分の考えを言語化するために読書をしていて、おもしろい感想を書く人とつながりたくなっている。何年もかかったはずの自分の変化にあっさり乗っかって、かつての自衛マインドを自分の中でなかったことにしていました。

 


そんなこんなで…。
なんとなく気乗りしない読書話の気分の裏には「わたしはまず自衛として本を読んできたので、そんなにポジティブに迷いなく読書が好きとか本が好きとか言えないの…」というコンプレックスがあったんですね。 
でもここ数年は四十の手習いで、いろいろな本を教えてくれた友人たちのおかげで、明治大正時代の古い本も読めるほど読書が苦にならない筋肉が育ってきました。まさかあんな分厚い昔の小説が読めるようになるなんて、振り返ると夢のような成長です。

はじめは悔しさやコンプレックスがきっかけでも、続けていくと自分のものになるみたいです。