うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

『ヨーガ・スートラ』はパーソナル・ジャーニーの後半のはじまりで効いてくる

昨年の9月に、もうひとつのブログにこんなことを書きました。

 

 

世間で言うように人生100年時代なのだとしたら、わたしはいま、その後半のはじまりのところにいます。
『ヨーガ・スートラ』をこれまで何度も書物として読んでいましたが、ここ数年でその存在感が変わってきました。

 


はじめは「ヨガって運動や呼吸法だけじゃないんだ、へー、教典や聖典があるんだ・・・」という興味からはじまりました。

その数年後にインドで授業を受けてからしばらくは、複数の学派の教典と比較して読む対象でした。ヨガはインド六派哲学のヨーガ学派なので、他に5つあります。
この過程も学びとしては勉強になりましたが、ヨガは人間の生き方の技術を探ったものなので、自己の振り返りとともに響くタイミングが実践のチャンスになります。

身近な人の老病死は自分自身にそれがやってくる前に近くで見る機会になり、自分の老いについては、身体が隆盛期を過ぎてホルモン分泌量が減ることを脳の働きを通じて認識する。現在のわたしはそういう経験をしています。

かつての自分の活力を「あれはポジティブな形でラッピングした怒りと反発、あるいは怯えを振り払うためのエネルギーだったな」と客観視するようにもなりました。

 


これらを認めることは、しんどい部分もあります。
ですがわたしはここで自分のことを他人事のように見ないように心がけています。
自分で自分自身を置き去りにすると、置き去りにされた寂しい自分のつぶやきが増えて、心そのものが鬱陶しい存在になってしまうから。

 

 

  そんなときに聖典が助けになる

 

 

『ヨーガ・スートラ』は格言集のように見える書物ですが、葛藤を棚卸ししながら読むと、全く違う書物になります。

 


 「あーそれね、はい、それは、この段階で起こることや。
  ほれ。おっちゃんがリストアップしといたったで」

 


と、パタンジャリおじさん(なぜ関西弁)が横にいてくれているような、そんな感じがするのです。ぜんぜん説教くさい書物じゃない。これは癒しの書だったのかと驚きます。同じくリストアップおじさん的な存在として『サーンキヤ・カーリカー』という書物もあります。

 

サーンキヤのほうは残念ながら書籍が少ないのですが、『ヨーガ・スートラ』の本はたくさん出ています。

『ヨーガ・スートラ』の第1章は、読んでもそれがわからないときに「むずかしそう」よりも「今の自分はこのくらいか」と思うのが正しいリアクションなんだと思うようになりました。第1章がすばらしいです。