うちこのヨガ日記

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ヴェーダーンタ思想の展開 中村元 著


年末は図書館の休館日が長いので、そこを見越して借りてみたのですが、んま〜、濃い内容でした。
ヴェーダーンタ軸(おもにシャンカラ)で他の教義との違いが書かれているので、ヨーガとサーンキヤを別の角度から再認識することができました。
時代感としては、Jゴンダ先生の記述によると

という流れで、不二一元論は「二つじゃないよ、一つだよ」という意味です。とても仏教と仲良くなれそうな感じなのですが、わたしの理解としては

  • 二元論:サーンキヤ(プルシャとプラクリティ)
  • 不二一元論:シャンカラヴェーダーンタ(見るものとか見られるものとか分けない。オール幻)
  • ゼロを目指すかんじの一元論:仏教(幻という考えはおおむね一緒なんだけど「アートマンってそれアーラヤ識のことじゃないの」と、脳科学っぽくおっしゃる)

知れば知るほどに、仏教の厳しさが引き立つインド思想世界。いまとなってはわたくし、「仏教がやさしく沁みるわ」と思うことはありません。あれは日本の仏教のムードや味付けであって、仏教の教えはインド思想各派をスーパーマリオに喩えると4面。火がボーボー出てきてこわい(笑)。



基本的な学派の存在の説明もすごくわかりやすかったです。

<第12章 西洋と日本へのシャンカラの影響 より>
 インドにはヴェーダ聖典と密接な関係のある哲学学派が二つある。ひとつはミーマンサー(Mimansa)学派である。これは、ヴェーダ聖典一般の説く祭祀を哲学的に説明し、基礎づけようとする学派である。もうひとつがヴェーダーンタ(Vedanta)学派である。「ヴェーダーンタ」とは「ヴェーダの終わり」という意味で、実質的にはウパニシャッド聖典を意味する。これを奉じる学派をヴェーダーンタ学派(Vedantin)というのであるが、これにも細かな学派の区別が起こり、シャンカラはそのうちでも最も有力な不二一元論派(Advaitin)の開祖である。

このあと、西洋でその影響を受けたショーペンハウアーエマソンを経て日本に、特に明治以降の日本の思想界に影響していると書かれています(402ページ、407ページ)。




この本はヴェーダーンタのさまざまな歴史と思想を紐解いているのですが、いきなり序盤に「主宰神」についての説明が出てきて、ヨーガ・スートラでもふんわりしているそのポジショニングの背景が垣間見えました。

第2章 ヴェーダーンタ哲学における苦しみの意義 より>
このスートラ(ブラフマ・スートラ)の説く最高神は、世界創造に関して、他のものに依存しているのであるから、完全に絶対自由な人格神ではなかった。各個我に応じて苦あるいは楽の果報を授けるだけであるから、ロボットのような存在である。厳正なる神ではあるが、恩寵を授ける神ではない。それは各個我の行動ならびに
繋縛と解脱を可能にし、万有を成立させている神ではあるが、個我に対しては、ただ一種の機械因のような関係をもっているだけであって、積極的に各個我をして善あるいは悪をなさせることはない。ただなにもなすことなく、安住(sthiti)しているのである(BS., ?,3,7)。個我の解脱はそれぞれの個我の修行によって起こるのである。ヒンドゥー教諸派の強訓するような最高神に対する親愛(bhakti)の観念は説かれていない。
『ブラフマ・スートラ』においては、個我は最高我の部分であり、両者は不一不異の関係にあると考えられていたために、個我の苦悩の問題について、右のような解決が与えられたのであった。ところが、やや遅れて現われた哲人シャンカラ(Sankara 西暦八世紀前半)は、個我と最高我(ブラフマン)との全同説を説いた。個我はその本性においては最高我とまったく同一のものである。自己の本休がそのまま絶対者である、というのである。このような見解によると、個人の苦悩問題については、おのずから別の説明が与えられることになる。

雇われ社長みたいな感じなんですね。ヨーガ・スートラでも、たしかにそんな気がしなくもない。



 シャンカラによると、行為の主体としての個我(sarira 身体我)はまた享受者(bhoktr)でもある。すなわちみずからの行動の果報として受けるところの苦楽を享受するものである。個我が能動者(kartr)であるとともにまた享受者であるということは、個我の二大特徴であるが、両者はともに輪廻の世界に属する性質である。しかし、彼によると、身体を具有する個我が苦楽の果報を享受するということも、現実生存の経験的立場においてのみ、苦楽を享受するという現象が認められるのである。

現世利益的に生きる日本人には、シャンカラさんのヴェーダーンタがはまりやすいだろうなぁ。



シャンカラの説の続き)
かれは解脱のことを「身体のない状態」(asariratva)と呼んでいるが、それはけっして、あらゆる神秘的呪力または霊力によってわれわれの身体の滅亡することを考えていたのではない。われわれの身体そのものは、悟りの以前と以後においてなんの変化もない。ただわれわれ自身が、悟りの以前においては身体に縛られていたのに、ひとたび悟りに到達してのちには、身体を有しながら身体に束縛されず、随処に主となる境涯を体得するのである。したがって、この二つの物態の差は、ただ「区別智」(viveka)が存するか否かにかかっているのである。〔「区別智」とは。われわれ凡夫が身体や諸器官、さらに財産などを〈自分〉であると誤り解しているのに対して、真のアートマンはそのようなものではないと、さとって、アートマンをそれらのものから区別する知慧のことである。〕

ここはもう、びべたんの元ネタという風情です。「区別智」を全面に打ち出したのがいいなぁ、ヴェーダーンタ




先に書いた、ヴェーダーンタと仏教の大きな違いは、ここ。

<第5章 自我の存在の自覚 より>
インドでは、アートマンの存在を承認しない思想もあった。その代表者は仏教である。そこでは「われ存在す」という直観の問題はどう考えられていたのであろうか。すでに原始仏教において、人間には「われ存在す」という自覚のあることが認められていたが、それは<われ>が実際にそんざいすることを証明するものではなくて、迷妄にすぎないと考えた。もろもろの煩悩が起こるのは、「われ存在す」という思いが根底に存するからであるというのであった。

(中略)

 この見解は高度に発達した唯識哲学の場合でも少しも失われていない。唯識説でも、人間が自己の存在を考えていて、しかも、それが人間存在の根底に存するものであるという基本構造を承認している。人間の存在の根底に「思量という名の識別作用」(mano nama vijnanam)があり、それが「自己という見解」(atmadrsti)、「自我に関する迷妄」(atomamoha)、「自我が存在するという慢心」(atmamana=asmimana)、「自我に関する愛執」(atmasneha)を伴ってはたらいているが、アーラヤ識を自我(またはアートマン)と誤認しているだけにすぎないから、結局は否定されるべきものだというのである。

仏教って、キン肉マンでいうとウォーズマンみたいな存在だよね。(←キン肉モーハー表現☆)




マドヴァ派という、サーンキヤでヴィシュヌ派、みたいな掛け合わせもある。

<第8章 マドヴァ派の思想 より>
 マドヴァの哲学は普通<二元論>(Dvaita)とよばれているが、それは必ずしも西洋哲学でいうように精神と物質との二元を想定するという意味ではなくて、二つのものの対立を認めるという意味であって、第一義的には最高我(paramatman)と個我(jivatman)とが別の実在であるということを認めるという趣意である。全体としては、五種の別異性を主張する。

  1. 個我と主宰神とが異なること。
  2. 物質と主宰神とが異なること。
  3. 個我が互いに異なること。
  4. 物質と個我とが異なること。
  5. 物質が互いに異なること。

 そうして『以上五種の別異性を有するこの現象界は、真実でもあり、また無始でもある』(SDS.,V,l,136f.)という。
 世界創造の順序に関する説明(Mm.,?,2ff)は、プラーナ聖典に述べられているように、サーンキヤ・ヨーガ説がいくぷんか修正されたものである。最高存在はヴィシュヌ、ナーラーヤナ、または最高の尊師(Paro Bhagavan)と呼ばれていて、ブラフマンとは呼ぱれていない。

ほかにも、インド六派の定義に仏教を入れてヨーガ学派を抜いているシヴァ派があったり、まあとにかくいろいろあるのです。




このほか、「第7章 異なった哲学的世界観の対立と宥和」にあった

ヒンドゥー教ヴィシュヌ神信仰においては、ブッダ仏陀)は通常ヴィシュヌ神の第九の権化と定められているが、ヴィシュヌはブッダとして権化し、誤った教義を鼓吹し、悪人および悪魔をして、ヴェーダの学習祭式を放棄し、階級制度(四姓)を無視させて、彼らを破滅に導くのだという。(SBh.参照)

という話もおもしろかったし、
「第9章 ヴァッラバ派の思想」にあった(以下要約)

クリシュナを崇拝するヴァッラバ派は特に幼童クリシュナを崇拝する。幼童クリシュナがマトゥラーの牧女(gopi)たちと戯れることが『バーがヴァタ・プラーナ』第10巻の主題になっている。この10巻はこの世の恋愛のかたちで精神的な献身的信仰を象徴する目的で書かれ、『愛の海』(Premsagar)という題名で知られているが、やっぱり快楽主義的な教義に用いられたという話

も「そういうことも、あっただろうなぁ」と思った。




まーしかしそれにしても、ほんとよく考えるインド人。「智」を力だと信じてる人たちのエネルギーに感嘆。
中村元先生もこれまたびっくりな仕事量。訳語の漢字の選び方の機微・精度もすごくて、読んでいるとしびれます。この規模の本を30冊以上まとめてる。中の人なんにんいたの? と思ってしまいます。