うちこのヨガ日記

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インドの「二元論哲学」を読む ― イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』 宮元啓一 著


サーンキヤ学派の代表的教典「サーンキヤ・カーリカー」の日本語版解説書です。手に入りやすいものだと、このほかには「バラモン教典」に収録されたものがあります。注釈書というのは表面的な文面での「わかりやすい」「わかりにくい」で語るものではないし、表現力は別の話。学びの土台があるほど楽しめます。(前にも書きましたが、日本はもともとコメンタリー文化が育たなかった国なので)
わたしは経典はなるべく自分の中にある理解しやすい傾向(経験によるもの)に引っ張られないよう、先に英語で読むようにしているのですが(これを読みました)、自分で日本語訳したあとに読むと「!!!」ということがいっぱい。ドラマチックな読書でした。「はじめに」でカントの自己の解釈とプルシャの概念の共通性、夏目漱石についても少し触れられています。きゃぁ☆



この本自体のアウトラインはこんな感じです。

  • いろいろな註釈(注釈のモトネタということ)があるが、この本は「ガウダパーダ」註
  • 各頌(しょう・スートラのような、節)を以下の3つで説明
  1. 註=ガウダパーダが注釈したものの訳
  2. 頌=スートラのようないわゆる節の訳
  3. 解説=著者さんの解説


わたしはさまざまな矛盾や不完全さも含めてサーンキヤが好きなのですが、この本の著者さんの解説にも

わたくしは、自己の推論による存在証明は、イーシュヴァラクリシュナやガウダパーダには悪いですけれど、話半分に聞いておくというのが賢明であろうと考えます。
(第一七頌の解説より)

とあり、なんだかほっとしました。
推論(煙があるので、そこに火がある。というような考え方)というのはインド哲学以外にもあるのだと思いますが、こういうベースに乗せていくとサーンキヤは非常につらい。その点がハッキリとコメントされていて、心のしこりがやわらかくなったような、そんな気分になりました。



この本では「解説」のところで、他の教派に対するサーンキヤ学派の各点での立場が説明されています。よく「ヨーガでは○○ですよね」といわれることも、サーンキヤヴェーダーンタでは違うことがあるし、おなじヴェーダーンタでもシャンカラの場合はまた違ったり、さまざまな立場の取り方があります。
なかでも、シャンカラ(不二一元論)の巧みさの説明として、以下の説明がとてもわかりやすかったです。

<第一二頌の解説より>
 『ブラフマ・スートラ』という根本テクストによって確立されたヴェーダーンタ哲学は、その有の哲学を下敷きにして流出論的一元論を展開しました。しかし、『ブラフマ・スートラ』にすでに議論が見られるように、清浄である世界の根本原理ブラフマン=最高自己=最高神から流出した世界に不浄が混じるのはなぜかということについて、流出論的一元論は決定的な解決策を見つけることが不可能です。絶大な難点なのです。
 ところが、サーンキヤ哲学では、精神原理(自己)と非精神原理(原質、主要なるもの)の二元が立てられ、三つの従属要素より成る原質から世界が流出したとしますから、その難点は完全に解決されます。
 紀元後八世紀に出現したシャンカラは、サーンキヤ哲学と仏教から構想を得、従来ヴェーダーンタ学派が採っていた流出論的一元論を排除することによって一元論を守りました。そして、低位のブラフマンからの世界の流出は、勝義よりすれば幻影であるとしました。あるのは自己=ブラフマンのみということです。まことにシャンカラは巧みなのでありました。

このシャンカラの巧みさは、インド哲学史のなかでいちばん「頭いいなー! おい!」と叫びたくなるところかも。
 

これに関連して第四四頌の解説もシビれたので引用紹介します。

<第四四頌の解説より>
「最高自己(最高我)」の原語は「パラマートマン」(paramatman)です。サーンキヤ哲学では、精神原理としての自己の原語は「プルシャ」です。実は、「パラマートマン」というのは、流出論的一元論を唱えるヴェーダーンタ学派の用語なのです。ヴェーダーンタ学派では、輪廻する主体は個別自己(個我、jiva あるいは jivatman)であり、それが正しい知識を得て解脱したとき、最高自己(最高我)すなわちブラフマンとなるとされます。しかし、サーンキヤ学派では、自己は輪廻する主体ではありません。彼らにしてみれば、ヴェーダーンタ学派がいっている最高自己(最高我)というのは、実は輪廻を止めた微細身でしかないことになります。つまり、こういう言い方で、サーンキヤ学派はヴェーダーンタ学派を揶揄しているのです。

このような説明方法で主宰神の扱いの違いが第六一頌の解説にもあるので、その方向で勉強している人にはとてもわかりやすい解説が得られますよ。


わたしがどの訳を読んでもまだ入ってこないのが一五頌であることがあらためてわかったり、無理があるけどやっぱ六七頌はおもしろすぎることに気づいたり。さまざまな再発見がありつつ今後も読み続けることになるであろう書。ヨーガ・スートラは完成されすぎていて一緒に悩める感じがしないのだけど、サーンキヤ・カーリカーは一緒に悩める感じが魅力。
わたしはサーンキヤの「状態」と「成分(存在)」を分ける考え方(二元論とは別の意味で)が好きで、そこに圧倒的な救いを感じています。端的に説明するのが難しいのですが、「のび太のくせに生意気だぞ!」という表現がアリなこの国では、ヴェーダーンタよりもサーンキヤの学びのプロセスのほうが重要と考えています。
別の言い方をすると、「アムロはうざい中二病だけどアレの使えるニュータイプゆえ、ダサくても主人公ということで!」というアニメがヒットする日本で理解されやすいはずの哲学でもある。とはいえサーンキヤに至るまでの学び教材が日本には圧倒的に欠けている。とても惜しい学問です。