うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

企業を白くする人々の悩み

ここ数年で、近しい友人だけでなくヨガで会う人にもこういう疲れ方をしている人が増えているように感じるので、ここにわたしの考え方を書きます。

 

これは何年前から加速しているのか。コロナ以降特にすごくなったと友人が言っていたけれど、かつての管理職者と今の管理職者の持つタスクの違いの大きなものとして、企業をツルピカにする加工工程での精神疲労というのがありますね。

ヤスリをかけて表面の凸凹をケアしてから白く塗る。ヤスリの選択から超慎重に進めなければならず、なかなか大変な環境です。

 

 

 

「白って200色あんねん」

でな、ヤスリの選択も200パターンあんねん。

しかも今はコーティングのしかたも多方面への配慮があってな、それはPRの人たちがやってくれんねん。

 

── という構造の中で繊細な選択を日々強いられるのは大変なこと。

いくら欧米で流行ったとはいえ、管理職者のこの状況にいきなり座るマインドフルネスをそのまま提案するのは過酷よね。これが何年もヨガをしてきたわたしの正直な考えなのだけど、同じ意見の人っているかしら。

 

 

利益・収益をあげながら日々ヤスリの選択を行い、前提とされる先々のコーティングに配慮し、かつ自らの中にある欲求までマインドフルネスで認知するというのは、かなりの難易度です。マインドフルネスは魔法のように効くものとされていますが、「それ、嘘ではないけど、嘘だよね」とわたしは思います。

 

 

今年の1月に発表された、英国のこんな調査記事があります。

Employee well-being outcomes from individual-level mental health interventions: Cross-sectional evidence from the United Kingdom

https://onlinelibrary.wiley.com/doi/full/10.1111/irj.12418

 

近頃はブラウザの翻訳機能でもかなり読みやすくなっています。

結論の一行目はわたしも至極納得するところで、企業の人材開発部でお勤めの方にとっては、耳の痛い話かもしれません。(以下はchromeブラウザでスイッチできる日本語訳文)

 

この記事の結果は、マインドフルネス、レジリエンス、ストレス管理、リラクゼーションクラス、健康アプリなど、個人レベルの精神的健康への介入の人気と正当性に疑問を投げかけています。

 

「じゃあどうすればいいっていうのよー!」とキれたくなった人材開発部のあなたにも、わたしは「おつかれさまやで」と毛布を掛けたい。

定量的に観測できないものに対するアクションを「人気」で採用してしまうことへの陳腐さを、わたしたちはどうしたらよいのだろうね。

 

瞑想を生活に取り入れている人がみんなマインドフルネス推進派かと言ったら、まあちょっとは葛藤がある、というくらいの視点が誠実な態度のように思います(ビジネスマンとしてそれを表に出す必要はないけれど)。

どのへんくらいまでのデザインが求められているのか、最大公約数よりも最小公倍数で、小ユニットでやっていくほうが効果が見込めるのだけど、それは非効率だから求められていなんだよね・・・と葛藤する価値を裏付けるかのような上記のデータの存在に、わたしはダヨネと心でうなずくのです。

 

 

わたしはマインドフルネスもレジリエンスもストレス管理もリラクゼーションも、ものすごく個人的なものと思っているので(体内組織にも生育環境にも個別性があるから)、他人同士が関わる組織が関与できる範囲は少ないんだよね、だけど見捨てはしないよ、というバランスの取り方に注目します。

 

 

先日『カルマ・ヨーガ 働きのヨーガ』を10年ぶりにじっくり再読していたら、こんなことが書かれていました。

大切なのは、義務と道徳には等級がある、ということを認めることです。人生のある身分、ある環境にある人びとの義務は、それを異にする人びとの義務と同じではないし、また同じではあり得ないのです。(P31

 

男たち女たちが個々にはどんなに多様であっても、その背後には単一性があります。彼らの相異なる個々の性格や種類は、創造の中の、自然のバリエイションなのです。ですからわれわれは、彼らを同じ基準で評価したり、彼らの前に同一の理想をおくようなことをしてはなりません。そういうやり方は不自然な努力を余儀なくさせ、その結果は人が自分を憎みはじめて、宗教的にも善良にもなりにくくなるでしょう。(P39

 

”不自然な努力” が今まさに真っ盛りという社会の中で、最後まで食い入るように読みました。

スワミ・ヴィヴェーカーナンダ師のどこがすごいって、この真実の要約です。

 

不平等が創造そのもののために不可欠であるのとまさに同様に、それを制限しようという努力もまた必要なのです。(P207

 

不平等が創造を支えてきたのは、事実。ここで嘘をつかない。

これからは維持のことも考えて不平等に対する制限に目を向けようというフェーズに来ていることを理解するのに、いきなり「不平等をなくそう」ではなく、「不平等を制限しよう」の方が、ちゃんと不平等を認めているし、圧倒的に冷静です。

「もうそれは古いですよ。ナシですよね」の話法を「そこ、そろそろちょっと制限していこうか」とするほうが受け入れやすいです。

 

 

4月はいろいろ環境の変化や役割に引っぱられて心身が疲労しちゃう時期だと思うのだけど、なんか今日書いたようなことを理由に疲れている人がいたら、この本が薬になるかも。慣れないと譬え話のところが劇薬だけど、わたしは読むたびに助けられる本です。