うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

「離欲についての教え」と、自己を無味乾燥なものにさせないこと(ヨーガ・ヴァーシシュタ 第1章)

ヨーガ・ヴァーシシュタを読んでその内容を瞑想するモーニング・ルーティーンが2周目(2年目)に入っています、という話を少し前に書きました
そのときと同様、今日の話は初回読書中の人は読まないほうがよいかもしれません。

 


みなさんは、夏目漱石の『こころ』を、大人になってから読んだことはありますか?
わたしはいまヨーガ・ヴァーシシュタを再読中なのですが、第1章(離欲についての教え)を読み終えてみたら、夏目漱石の『こころ』と同じような構造になっていることに気がつきました。
神経症的な人の言葉の力を感じます。

 

第1章の最後にラーマの話を聞いた人々がいっきに気持ちを持っていかれますが、これは『こころ』の序盤で「私」が男性を「先生」といつの間にか呼びはじめてしまう感じとそっくりです。
初回(昨年)の読書では気づきませんでした。物語の中の人々と同じように、自分も持っていかれてたのでね。

それにしても、ネガティブ・スパイラル問答をリズムよく整えた言葉は、ものすごい吸引力を持ちますね。


ラーマの語りの以下のあたりなどは、『こころ』の先生そのものって感じです。

ですから、私はある程度とらわれ、ある程度自由なのです。私は切り倒されたのに、根元から断ち切られなかった木のようです。心を抑制しようとはするのですが、そうするだけの叡智を持っていないのです。
(ヨーガ・ヴァーシシュタ 19 より)

第1章の中盤は『こころ』の登場人物「K」が言いそうなセリフも多く、どっちにしても夏目漱石です。


そしてこの章の終わりは、そこまでしっかり思いつめたのであればOK。よーし、いよいよキックオフだ!!!  とばかりに、聖者の集まりの場面へジャジャーン!!!と移っていく。

 

 

・・・なーんて落ち着いた読み方ができるのは、読むのが2回目だからです。
初回は独白の勢いに持っていかれました。だって、喩えが異様にうまいんだもの。
そして再読でハッとするのは、この章のタイトルが『離欲についての教え』とされていることです。
ラーマが話している内容が、

 

 

 

  離欲できてはみたものの

 

 

 

なんです。
離欲ができるようになるための教えじゃない。もう、できるようになってんの。"なってみたけれど" って話なんですね。
だから『離欲についての教え』って書いてあるだろ! って話なのですが、読む側のわたしは勝手に「離欲ができるようになるための教え」を授けてくれるものと決めつけて期待して読んでいる。

このように、聖典に無条件で寄りかかれるものと思っている自分のスタンスもあぶり出されてしまいました。なんて恐ろしい書物でしょう。
『ヨーガ・ヴァーシシュタ』は、すごい仕掛け本ですよ。まったく。

 

 

細かい説明は省きますが、夏目漱石の『こころ』という小説に対して、「そんな長い手紙、封筒に収まらないのでは」みたいなツッコミをカッコいいつもりでしちゃう人にはまったく響かない本です。

"この形式だからできること・できたこと" に感動する人には、どうにもたまらん本です。