うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

アハリャーの物語(ヨーガ・ヴァーシシュタ第3章にある寓話)

昨年出版された日本語版の『ヨーガ・ヴァーシシュタ』を今年も引き続き読んでいます。第3章はおもしろストーリーがてんこ盛りなので、各寓話にある要素をちょこっと紹介しています。

前回は「インドゥの息子の物語」について書きました。今回はその次に収められている「アハリャーの物語」です。

 

 

この物語は、話者が「太陽」で、創造主ブラフマー神に向かって話をしています。

前回の「インドゥの息子の物語」では、自分がインドゥの十人の息子のうちの一人であると、そのルーツを太陽が話しました。おおもとの先祖である創造主ブラフマー神に対して、自分とその父の話をした形です。

 

 

それに対してブラフマー神が「創造すること」ついて、そもそもなんだけど・・・みたいなことを言い出します。

「創造主のわたしが創造したものが、わたしに関係なく、さらに創造をすることができる。なら、わたしは何をすればいいんだ」と。

神様って、それはそれでしんどいのねと。読み手はなんだか銀座のママのような気持ちになります。

 

 

この太陽&ブラフマー神のやり取りが、いまや自分よりも有能としか思えないカリスマ統括本部長を前にした創始者社長みたいだと、わたしにはそう見えました。その話を前回書きました。

これはどんな執着、束縛への示唆なのか。

それを示すために太陽が話すもう一つの寓話が、「アハリャーの物語」です。

 

 

アハリャーの物語

これは太陽がブラフマー神に喩え話として聞かせる伝説で、登場人物は以下の4名です。

 

  • 王様。名前はインドラディユムナ
  • 王妃。名前はアハリャー
  • 同居する不品行な美男子。名前はインドラ
  • 聖者。名前はバーラタ

 

アハリャーがインドラと不倫関係に陥ります。アハリャーは、自分と同じ名前の天女がインドラ神に誘惑される物語を耳にして感銘を受け、インドラという若い男性に意識が向かうという、不倫へ至る流れもまたインドっぽい独特の展開です。

王はその二人の関係を罰するのですが、二人は心のつながりが強く、外部からの力では関係が解けません。そこで王は聖者バーラタに、二人に呪いをかけてもらいます。

その呪いで二人の身体は破壊されるのですが、二人の心はその身体を去っても、夫と妻として生まれ変わり続けます。

 

 

このあと太陽がブラフマー神に向けて言うことが、想像以上にすごい

前回の「インドゥの息子の物語」の話をした時に、ブラフマー神が太陽に向かって「わたしは何をすればいいのだろうか?」と尋ねていました。

太陽は、その話の続きとして、「アハリャーの物語」を踏まえつつ、ここでさらに深い返答をします。

 聖者の呪いでさえ、二人の心に変化をもたらすことはできませんでした。ですから、主よ。あなたが聖者の十人の息子たちの創造に干渉することはできないのです。しかし、彼らが彼ら自身の創造をしたところで、あなたが何を失うというのでしょう? 彼らには彼ら自身の心による創造をさせればよいのです。

 

(中略)

 

若者たちが何を創造しようとも、あなたはあなたの好きなように、好きなだけ世界を創造することができるのです。

80より)

若者たちの活動を見て、自分が何かを失ったと思っていませんか? と、こういう指摘をします。

わたしはこの展開に度肝を抜かれました。走り出したら止まらないものを見て、なんだかいじけるような気持ちってありませんか。漠然とした疎外感のような。

わたしはオリンピック開催についてモヤモヤした気持ちを抱えたときに、自分の心を分解する過程で、まさにこの性質のものが存在していると思ったことがあります。

 

 

さて。話を戻します。

『ヨーガ・ヴァーシシュタ』はそこから語り手がブラフマー神に代わり、聞き手はヴァシシュタ仙に代わります。

この(80)の太陽のセリフはさらっと読み飛ばしやすいところにあり、初回の読書ではこの内容のすごさに気づかなかったのですが、あらためて読んで、「インドゥの息子の物語」との関連付けに驚きました。

 

 

太陽はその後、どうやらマヌになったようです。マヌという言葉は出てきませんが、人間の祖先となったと語られています。ヨーガ・ヴァーシシュタのなかではそのようになっています。

 

 

ここからブラフマーヴァシシュタ仙ラーマ王子 の伝授スタイルに戻る

精神的身体、物質的身体の話が、これらの物語を通じてブラフマー神からヴァシシュタ仙へ、そしてラーマ王子へと対話が展開してきます。

このあともしばらく、ヴァシシュタ仙が「これはわたしがブラフマー神から聞いた話だ」という法話が続きます。

 

こういうバッグ in バッグ(トートバッグの中にポーチみたいなのを入れること)のような、物語in 物語というパターンは、ヨーガ・ヴァーシシュタに限らず、インドの聖典ではよくあります。

これが、インドの物語はよくわからないと言われる原因の一つだと思うのですが、この形だからこそ「おおっ」となる示唆があります。

 

 

よくラジオの投稿にあるエピソードで、すてきな恋の思い出が語られたあとに、「ちなみに、その女性というのが、現在の妻です」と語られる様式がありますね。のろけかーい!と突っ込みたくなるやつ。

あれと同じような感じで、でもそこではぜんぜん終わらずに、さらに網目が連鎖していきます。

なかでもこの「インドゥの息子の物語」&「アハリャーの物語」の展開は、自分が生み出した存在に対してまるで嫉妬をしているかのようなブラフマー神に対し、「あなたは何も失っていませんよね」と返す太陽、そんな太陽にさらなるリスペクトを寄せるブラフマー神という構図。

 

 

日本の物語だと「こりゃ、一本とられたわい(おでこペチン!)」で終わりそうな話が、リスペクトの応酬で簡単には終わらない。

お互いにずっと尊敬を寄せ合いながら、根本的な自我をあぶり出していく。上下関係ではない、並列で尊敬し合う神々の会話に引き込まれます。

 

 

この物語が英語で聴ける動画を見つけました。

4分半~5分半あたりが、太陽の最後のセリフです。