うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

心について学ぼうとすること

先日、ヨガクラスの冒頭で、少し思い出話をしながらわたしの考えを話しました。

多くの人がショックを受けるテロ事件の翌々日だったので、この話をしました。

はじめてヨガを教わりはじめた頃の先生の話をしました。

 

 

その先生はインドのかたでしたが、わたしが生まれる前から日本で暮らし、日本語を話していました。

衝撃的な事件が起こったり判決のニュースが出ると、犯人の頭がおかしいことにして終わりにしようとしてはいけない、それではダメだとおっしゃっていました。

今年の3月に、もうひとつのブログにそのことを書きました。

 

 

先生と話していると、小学生の頃に受けた『道徳の授業』や、国産の物語でインプットを受ける『忍耐の美徳』『連隊の力・助け合い』などの教育は、人間の心について学ぶこととは程遠いものだったことに気づき、それが毎回刺激的でした。

 

 

先日のヨガクラスで、わたしはあまり模範的ではない話しかたをしたと思います。

「ヨガをしていると、そこからヨーガ・スートラやハタ・ヨーガ・プラディ・ピカーといった書物を読むことが哲学面の勉強と思う人が多いのだけど、わたしの場合はそれらの書物よりも、こういう教えが腹落ちしました」という話をしました。

 

 

サーンキヤ哲学に因中有果論というものがあることと、『ヨーガ・ヴァーシシュタ』に出てくる鳥と木とヤシの実の話をしました。

そして衝撃的事件があるたびに起こる、「勝手に因果関係を紐づけること」について話しました。

カラスが椰子の木に止まったときに椰子の実が落ちたら、カラスが椰子の実を落としたという物語を作るのが心だと、『ヨーガ・ヴァーシシュタ』ではその話がよく登場します。

椰子の実はカラスとは関係なく熟しているのに、です。

 

 

 

  情報や記憶の紐付けは、自分の心が行うこと

 

 

 

心そのものの機能について、わたしは30代まで教育を受けたことがなかった。それに気づいたことが、ヨガをはじめていちばんよかったことかもしれません。

 

 

この話をしたら、「わたしはうちこさんのように、なーんとか哲学とか、そういうのはわからないけど、心のはたらきそのものについて知りたいと思ったときに、初歩的な、おすすめの本はありますか」という質問を受けました。

帰宅したら「実はわたしもおすすめの本を知りたかった」と、別のかたからもメールをいただきました。

 

 

彼女たちと同じ気持ちの人って、実はすごく多いんじゃないかと思います。

自分のアイデンティティ・価値観の棚卸しをしないまま、「黄色く塗れ!」「オレンジ色に塗れ!」みたいな勢いで、ヒンドゥイズムに強く紐づく思想をインストールすると、自分OSのなかでアプリがぶつかってバグる。

だからといって、「ならば紫に塗ろう!」と日本の仏教に目を向けてそれがしっくりいくかと言えば、、、どうですか。

老・病・死への恐怖を題材にしたトピックの多いそれは、これといって強い恐怖や不安・不満のないときにも起こる、漠然とした心の揺れに向き合うには、味が濃かったり具が大きかったりしませんか。

 

 

「学び」って、マイナスではないことが確約されている気がして、つい手を伸ばしたくなります。キャラ付けをしたい、所属意識を満たしたい、自分に色をつけたい、という欲求も満たしてくれる。結局は淋しいんだってことに気づけるか。

わたしが自分のこれまでを振り返って思うのは、「自分は物事をインプットしならが自分の中でこういう色に染める」という、自分のなかにある染料を知ることは、”学び” というポジティブなイメージよりも、もっと淡くて、そして、しんどいものです。

 

 

でね。

今日はわたしの視点で、こういう角度から入っていくのは、わたしの入り口と近いかも! と言える、そんな提案をします。

それはズバリ

 

じゃん。アルボムッレ・スマナサーラ長老の本です。

長老は日本語で話してくれます。たくさん本が出ています。社会人向けの、アンガーマネージメントの本もあります。わたしは手元に上記の本を残しています。

 

以前、長老が若い人たちと話す講演会へ行ったときに、司会のかたが自分の理解を確認しながら進行するために「○○したほうがいい」という言いかたをしたら、「”いい” ではなく、 “まし” とわたしは言いましたね」とやさしく言い直されているのを聴いたことがあります。

そのやりとりを見て、元になっている仏教の教えのニュアンスとズレた丸めかたやポジティブ・コーティングを無意識にやろうとする癖もまた、日本人の心の特性(=日本語の特性)だと思いました。

 

 

「なんでこうしないの?」と尋ねられて「こうだから」という返答を探さずに、「やりなさい」「すべきだ」という意味と解釈する、そういうコミュニケーションが条件反射的に起こりやすい母国語世界で過ごしてくれば、そうなりやすい。

それをわかったうえで、good とは言ってない、better だ。というのを “まし” と日本語で話してくれる、長老のそういう言葉の選びかたが、わたしがはじめてヨガを教わったインド人の先生とのコミュニケーションと似ていると感じました。

 

 

日本人同士での母国語交流で起こる、日本語から日本語への翻訳で発生するズレが発生しにくいものとして、わたしは質問を受けると、アルボムッレ・スマナサーラ長老の本を上記の理由で推しています。

ヨーガの哲学の本ではないので、『ヨーガ・スートラ』と違うことを言ってる! と思うこともありますが、超越を目指さない現実的な教えです。

Youtubeで「スマナサーラ長老」と入れて検索すると、ゆっくりお話される様子がたくさん出てきます)