うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

感情が乗らなくてもできるように経験を積んでおいてよかったのだろう

今日は更年期世代のお仕事雑感日記です。
IT系の仕事をしているときの頭のなか(意識)について書きます。

 

わたしは近ごろ、仕事で対象を深掘りする執着力のなさを感じるとき、ある程度のところまで手癖でできるようになっておいてよかったと思うと同時に、出涸らし感のようなものを感じます。
頭を冷やしてもう一度見直してみる機会が増え、仕事のしかたが変わっています。
パフォーマンスの低下といえばまあそうなので、この感覚を認めたくない気持ちもあります。こういうことって、あまり世間で語られていないように思います。
だから仕事はチームでやるのがいいんだなと、最近しみじみ思います。

 

こういうことをざっくり「トシで」みたいな言いかたをするけれど、このような頭の状態になると、他者の協力のありがたみが沁みます。”感度が鈍い部分を助けて” といかにチャーミングに言えるか。そこはコミュニケーション能力で差が出ます。
斜に構えたり冷笑的なスタンスでいると、いよいよここでツケが回ってくる。
少し前にリモートワークがデフォルトになっている同世代の友人と会ったら「孤独って好んだり選んだりするものじゃなくて、白アリにみたいに気がつけば食われてる、そういうものだと思った」と言っていて、ひゃーっと二人で声をあげました。

 

他者と進めていく仕事の場合は特に、推測でも口にしてみることが契機になることがあります。
他の人の経験から想起される仮説とどこかで細い線が繋がって鉱脈を掘り当てることがある。滑ってもめげずに、余計なプライドをその都度処理する胆力がものをいいます。

 

こうしたらこういう結果が出るんじゃないかと推測したり、それを他者と話し合えるように経験を身につけてきたことは財産でした。あまり意識してこなかったけれど、財産でした。
失ったから過去形にしているのではなくて、財産の存在をまさに感じている。これまで財産と認識していなかったことを表現するための過去形です。
いまの脳の状態をよくよく観察してみると、貯金を切り崩すように使っている思考・手癖の瞬間があり、その瞬間に財産の存在を感じます。

 


なにかを始めるのに年齢は関係ないと言うけれど、社会生活と連動するコミュニケーションは、経験が無形財産になります。
わたしはヨーガの古典にあるヨーギーのように庵でクシャ草を敷いて隠居・瞑想の生活をしているわけではないので、こんなすったもんだをしながら暮らしています。
「なにかを始めるのに年齢は関係ない」を実現するために、手ぶらじゃいけない。

 

 

さて。
そんなわたしはいま、ヨーガ・ヴァーシシュタの再読をしながら「無理にポジティブに捉えるのも苦しみの原因になってるからな!」という指摘にぶち当たっていて(←第2章についてのわたしの解釈)、これまで片道ビンタだったところに、いよいよ往復ビンタがきたわ〜、ハイスクールララバイだわ〜、とタジタジになっています。
先日、わたしが書いた『注文の多い料理店』の感想を読んでくれた友人が、あの物語は最後が「これもいい経験!」みたいな話じゃないところがいいと言っていて、なんだか似たような教えが降ってきているなと感じたところ。

 


なにかを始めるのに年齢は関係ないけど、始めたら関係がある。
そして今日が人生で一番若い日であることも、200%事実。
そんなことを思うこの頃です。