うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

リーラーの物語(ヨーガ・ヴァーシシュタ第3章にある寓話)

昨年出版された日本語版の『ヨーガ・ヴァーシシュタ』を、今年も引き続き読んでいます。今は再読なので、ひとつひとつの寓話を少し落ち着いた目で読んでいます。

 

ヨーガ・ヴァーシシュタは全6章あるのですが、第3章はおもしろストーリーがてんこ盛り。どのお話も日本ではあまり馴染みのない展開で、いろいろ想像を裏切ってくれます。

 

今日紹介する、第3章の「リーラーの物語」は、いまが幸せで心配を先取りする王妃・リーラーが、女神サラスワティーとともに無限の意識空間を旅し、なにが実在なのか混乱する話です。

よくよく見るとリーラーは幸福な状態を維持することへの執着が強く、丁寧な言葉づかいと謙虚に見える振る舞いが、逆にじわじわ恐ろしい。

そんなリーラーに対して、女神サラスワティーが文字通り”神ワザ” を使って記憶のかたまり(時間の概念とともに作り上げられる)に束縛される心のはたらきを解きほぐしていきます。

 

併せて叡智のヨーガ(ジニャーナ・ヨーガ)も説かれるのですが、その言いかたがまた独特です。

49)でサラスワティー

意志の力で好感や反感を克服することは、苦行であって叡智ではない

と、こんなふうに言う。

ここから少しずつ、夫への自己同一化をマイルドに指摘していきます。ここからのサラスワティーの、デキるメンターっぷりがすごい。

 

転生してまで夫へのストーキングを繰り返そうとするリーラーに対し、(59)で以下のようにパキッと言い放ちます。

私たちは私たちの道を行きましょう。他者の道をたどることはできないのです!

はい次行きましょー! と、鮮やかに導いていくサラスワティーの明るさがいい。

この寓話の設定が導き出す教えとして、わたしはここが最も大きいのかなと思いながら読みました。

 

 

この教えはバガヴァッド・ギーターの335節を想起させます。

他人の義務をひきうけるより 不完全でも自分の義務を行う方がよい

他人の道を行く危険をおかすより 自分の道を行って死ぬ方がよい

田中嫺玉 訳

「リーラーの物語」は、仮託すること・役割を取りに行くことで失う主体性や生きる力についての教えなのかもしれません。

 

 

そして同時進行で、この寓話を通じてのラーマとヴァシシュタの問答があります。

時間や空間についての話が続きます。この時間や空間と記憶、そしてそれへの執着について話すための前段として、リーラーの物語が機能する。

 

 

ラーマは64)で、このように訊ねます。

 ブラフマンだけが存在するということは明白です! しかし、なぜ聖者や賢者たちは、あたかも神に命じられたかのようにこの世に存在しているのでしょう? そして、神とはいったいなんなのでしょうか?

「命じられたかのように存在する」という言いかたが、なにげに鋭い。

 

これに対し、ヴァシシュタは「無限の意識はその固有の力に気づくようになる」とし、そのような気づきはニヤティ(物事の本質を定める絶対的な力、天命、運命)またはタイヴァ(神の摂理、神の計らい、神の意志)として知られていると話します。

 

 

「神が私を養ってくれるだろう」と考えて怠惰になるとすれば、それもまたニヤティだと言い切った上で、「人生とは行動だ」とヴァシシュタが語る。

リーラーの「夫(王)ありき」の考えかたを見せたあとで、こういう展開になります。なんか凝ってるなぁ、と思いながら読みました。

わたしには途中で一瞬、サラスワティー宇野千代さんや瀬戸内寂聴さんのように感じられる瞬間がありました。もちろん気のせいです。

 

 

ニヤティについては以前別のところでもちょこっと書きました。