うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

前向きであるとはどういうことか

前向きであるとはどういうことか。
それは「サッとやる」ということ。
行動直前の躊躇のなかにあるネガティビティを捉まえる、そういう思考の癖に「魔」が潜んでいることを教えてくれたのは、わたしがはじめにヨガを教わった、インドから日本へやってきた先生だった。


わたしは部活の名残りでサッとやることが癖になっていたからその指摘はあまり受けなかったけれど、他の人が「サッとやって」と言われているのをよく見た。
言い方がとてもかわいらしい時と少しきつい時があって、その言い方の使い分けで、人のことをよく見ているんだな、と思っていた。


先にポーズに入ってキープをしている人には、褒めることで動揺させるという、斜め上から鞭が飛んで来ることがたまにあった。それもまた言い方にグラデーションがあって、いずれにしても人のことをよく見ているんだな、と思っていた。


「Wait!  マッテ」「ゆっくり。ゆっくり。」「○○、マッスグ」も頻出フレーズで、○○には身体の部位が入る。
待つときは待ち、ドタバタ動かず、サッと動きに入る。まっすぐであるべきところを意識する。
身体で理解する順番は人それぞれで、認識は個人単位でみんな違うこと、癖を持っていることが、先生の近くにいるとよくわかった。わたしは「○○、マッスグ」「○○、ツケテ(=閉じて)」をよく言われた。細かい部分を雑にやってしまうところがあるから。
ほんとうに、人をよく見ている先生だった。


そして、そのような感謝すべき恩人との関係で、わたしには反省しなければいけないことがある。
わたしは敬意を表明した時に求められる代償を、想像の段階で厭わしく思う気持ちを乗り越えることができなかった。それを自分で乗り越えて意思表明をして、自分で葛藤しながら探っていくのが現代的な大人のやり方のはずなのに、わたしはそれをしなかった。
先生はわたしの警戒心と弱さを読んでいたのか、とにかくいつも、ずっとやさしかった。わたしのやり方によくないところがあって呼び出されて注意を受けるときも、結局はやさしかった。もっとガツンと叱りつけたり命令したいこともあったはずなのに、やさしかった。
なんでもお見通しと思わせてくれる存在感に、わたしは最後まで甘えてしまった。もう少し考えをぶつけてもよかったのかな。うーん、でも、やっぱり。あーーー、でも、やっぱり。と、逡巡が止まらない。

 

先生はわたしが生まれる前から日本にいて、ヨガの先生だった。
だから日本語はペラペラで、わたし以上に古いビジネスマナーをよく知っていた。
文字は打たないからメールはこない。連絡はいつも電話で、かかってくるときは平日なら必ず朝9時前か19時〜21時の間、もしくは土日祝日。わたしが仕事をしている時間帯には電話をかけてこなかった。
ヨガのインストラクターをすることがあっても仕事は続けるもの、という前提でいつも会話をしていたことも、わたしのいまの基本的な考え方につながっている。


わたしにとって、先生はとにかく新しい存在だった。
義理と人情と驚くほどの割り切りがこれまでに見たことのないバランスで回っていて、その判断と考えに興味がやまず、わたしは先生の発言にいつも心の耳をダンボにしていた。
先生は日本語のセンスが抜群で、「久しぶりだね」を「懐かしぶりネ」と言った。
留守電では「こんにちは。ヨガの先生○○です」と、名乗らなくてもわかる声なのに毎回律儀に名乗った。

会った時にわたしの目が充血していると、今日は帰ったら玉ねぎを食べなさいと言った。
選挙のある日曜午後のヨガクラスでは、その日会う人みんなに「選挙行った?」と確認していた。
「戦争を知らずに〜♪ 僕らは生まれた〜♪」という歌をよく歌っていた。雨の日は八代亜紀だ。
日本はとても安全な国で、梅干しという食べ物はすばらしく美味しくて、ここで生活を営むわたしたちには幸福に対する自覚がない。会うたびにそれを思い出させるような話をしてくれた。
おもしろい話も複雑な話も、思い出を数えだしたらきりがない。


そしてこうやって何日もかけて思いを書き出してみると、もうとっくの昔に先生の意識はわたしのなかに転生し、ちゃっかり巣食って陣地を広げていたことがわかる。
地味なわたしの中で派手な服を着て、油断すると深刻の谷に自分を引きずり込む「魔」を追い払うべく、ニヤニヤしながら膝を揺らしてそこに座っている。
先生の言う「ビンボくさい」は、今でいうセルフ・ネグレクトを指していた。あれはただの身だしなみチェックではなく、心をチェックされていたのだった。
かなり変わったコミュニケーションだったけれど、よく刺さる日本語だった。
その声を思い出すだけで涙が止まらない。

 

 

7月4日は先生の言いつけどおり、選挙へ行ってきた。

聞かれる前に「もう行ってきました」と言えば「ふん」と一瞥するか「あたりまえよ」と返されるだけなのはわかっていたけど、選挙の帰りに心の中で話しかけてみた。

返事はもう耳から聞くことができないけれど、わたしの頭の中ではいつだってあの声を鳴らすことができる。

 

 

<いろんなことを教えてくれた先生の、印象深い話>