うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ダサくてもいい、本物なのだから。と開き直っているように見える光景に対する反応を大切に冷凍保存してきた

先日、同世代&少し若い世代のヨガ仲間女性と三人で話をしました。
わたしと同世代の人はオウム真理教の人がバラエティ番組に出ていたときの内容をわたしよりも記憶していて、わたしは選挙運動やニュースの映像だけが記憶にありました。少し若い世代の人は実家が東京の人で、住まいの近くに教団関連施設があったためテレビとは別の身近さを経験されていました。わたしは事件の頃は地方に住む学生だったので、身近な感覚はありませんでした。いまになって東京育ちの友人から「父親が丸の内線で通勤していたから家族ですごく心配した」などの話を聞くことで少し現実味を帯びるというような、そのような感じです。
この感覚は「アンダーグラウンド」という本を読むことで、友人の話を聞くことのさらに先にある感覚を追体験することができたように思います。


わたしはテレビで見たものから得た感覚をずっと冷凍保存のように持っていて、先日「逆さに吊るされた男」という本を読みながら、これだよな…と思い出しました。



 ダサくてもいい、本物なのだから



わたしはこの10数年ヨガをしながら、たまに目にする「本物のヨガ」「ホンモノのヨガ」「本来のヨガ」という表現をする人たちがまとっている、わたしの目から見て「ダサい」ビジュアルのヨガを慎重に見てきました。そのような表現を好む人の使う「ヨーガ」という長母音表記すらも退けたくて、このブログ名は「ヨガ日記」です。SEO(グーグルが引き当てやすくする)のためにヨガと記載しているのだという体裁をとりつつ、実はあの長母音だけで "ホンモノ感" を補強できると思っているかのような薄っぺらさを退けたかった。そんな思いがありました。



 ダサくてもいい、本物なのだから



ダサさというのは視覚だけでなく、語調、リズム、メロディ、動き、構成。あらゆる面で。



 おしゃれすぎて気おくれする



ここまではすごくわかるんです。わたしもよーーー!!! と共感します。おしゃれな環境へ足を踏み入れると自分を値踏みされるようで、こわいと感じるくらいです。
だからこそ「ダサくてもいい、本物なのだから」という開き直りに対して、「わたしの気おくれや恐怖する感情を利用してない? あなたたち。ちょっと、利用してるでしょ」とも考える。
人は明るく美しいものに魅かれます。だから



 おしゃれだから、人が寄ってきた



ということは生理現象。



 おしゃれじゃないから、人が寄りつかない



これも生理現象。
それを



 ダサくてもいい、本物なのだから



というところまでもっていくロジックは自分のコンディションがよく冷静であれば疑うことができるのだけど、自分のコンディションがよくないときに「おしゃれすぎて気おくれする」の延長に縫い付けられたら意外とシームレスに踏み込んでしまいそう。その境界は心の深いところにあるから、その日の自分は客観的に見てダサくなくても心の中に「おしゃれすぎて気おくれする」を抱えていたら「ダサくてもいい、本物なのだから」と開き直る自分の姿は容易に想像できる。
そんなコンディションのよくないときの自分に問いかける言葉は「"ダサくてもいい、本物なのだから" と納得する理由を語るとき、他人の名詞を出さずに語り続けることができる?」という問い。"本物" の経験を他人の名詞を借りずに自分ひとりでどこまで証明できるか問い詰めるようにしています。いつかの誰かの恩恵の集積によって今があることをなかったことにしたいときは、コンディションのよくないとき。これってブランド依存と何が違うんだっけ? と思うのです。



今年の夏は、そんな掘り下げに付き合ってくれるヨガ仲間女性と三人で、「神宮スタジアム・ナイトヨガ」へ行きました。


ヒューヒュー!!! ウェーイ!!! と、外苑前でおっしゃれーな光景。とても開かれている。動きをリードするのは女優でもあるインストラクターさん。かわいーーー!
わたしはヨガに対して "自分を無条件でポジティブに変えてくれるもの" とは経験上思っていなくて、もちろんその中間を見たらすごくしんどいものだと思っています。でも一周して楽しい!大好き!です。きっとこの女優さんもその中間を見たらすごくしんどいものだとわかったうえで、自分をポジティブに変えてくれたものだと発信している。役割を理解してやっている。だって人前に立つプロとして日本社会でやってきた人だもの。「善」に振り切っておかないと、隙を見せたらおしまい。プロはそこを知っている。



 ダサくてもいい、本物なのだから



という状態の人を周囲がそーっとしておくのは、やさしさから。この慈悲のなんと大きなことよ。
働きすぎること、傾倒しすぎること、シャレにならないほど没頭するあらゆる逃げ。「ダサくてもいい、本物なのだから」と理由をつけて、ふて腐れた態度を振りまいていた。そんなことが、わたしにもあった。あったあった! それでもそんなわたしを見捨てず今もつきあってくれている友人や家族を思うとありがたい。ありがたいなぁとしみじみします。
ずっと冷凍保存してきた言語化できなかった思いがヨガ仲間や友人たちの言葉に助けられ、この夏、解凍されました。まーこれだけ毎日暑けりゃ、解凍もされる。