うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

オウム真理教のさまざまな情報をみるときにわたしの思うこと

このブログは密教ヨーガの本なども紹介してきたので、オウム真理教の誰かが逮捕されたときに一般的に知られていない文字列が検索されることが過去にありました。ヨガのことを綴っているだけでなんとなく意識せざるをえなくなった、わたしにとってはそういう存在のオウム真理教
地下鉄サリン事件の年、いま40代なかばのわたしは地方で学生をしていました。その数年前に選挙演説の映像が流れていた頃は部活と受験勉強の時期で、テレビでちらっと見てもよくわかっていませんでした。当時はいろいろな予言モノをやっていたし、なんとなく変わったことをしている人たちが東京にいるらしいという認識。バラエティ番組にも出ていたことは最近知りました


東京で仕事をするようになって20年ほどがたち、いろいろな電車に乗り慣れて、あの事件が東京の中心部のなかでインパクトを狙ったものであったことを理解しました。なので事件そのものについては遠い知識でしか知りません。当時のことは、東京生まれ東京育ちの友人から聞く話と似たことを「アンダーグラウンド」という本を読むことで追体験しました。この本は、地下鉄サリン事件当日に親がその沿線で通勤していたという友人からすすめられて読んだのでした。



それとはまったく関係なく、わたしはヨガを始めて10年以上が過ぎています。わたしはオウム真理教と関連付けずにヨガを始めることができた世代で、ホットヨガ・ブームがはじまるぜ!という時期。当時はインストラクターが不足していたため、ヨガを始めてすぐにインストラクターにならないかと誘われました。そんな流れでインストラクターになってしまったので、同時進行で猛烈にヨガの歴史の勉強をしました。あのレオタードの時代の人たちがわたしのインストラクションでヨガをするのかと思うと怖くて、アーサナと呼吸法の本や解剖学の本はもちろん、さまざまな教典、スワーミーのテキスト、物語を読みまくりました。チベット密教や仏教とヨーガの教義の関係性も、だいたいわかるくらいなりました。でも実際そんなに濃い質問を受けることはありませんでした。




それでも "目に見えないものに惹かれる人の会話に出てくる特有の固有名詞" に知らないものがなければ警戒も必要がなくなり、あの猛烈な勉強はすごく役に立ちました。漠然とあやしい・いやだと思うことがない状態にしておけばヨガを嫌いになることもなく、今も楽しくやっています。漠然とあやしい・いやだと思うことがない状態というのは、"嫌悪の感情の理由を自分の中で起こる反応や記憶の紐付けも含めて詳述できる" ということです。もちろん口にはしません。口にはしないけれども、自分の中で具現化できていることでわたしは自己を保っていられる。そのようなスタンスがヨガの勉強とともに確立されていったような、そんな段階を経たように思います。




先月の死刑執行のニュースとともに、さまざまな考えを持つ人の意見を読んだり聞いたり見たりしました。
わたしはニュースの直後に、今もいるとされる信者の気持ちも少し想像しました。教祖の肉体がなくなったことを理由に気持ちがどのくらい、どんなふうに変化するのだろうと想像したり、死後の世界でたどる道を信じて緊張が解けない人もいるのだろうかと想像しました。なにかを信じる力という視点でみたときにどうなのか、ということを考えました。


わたしはマインド・コントロールが「解ける」ということについて、いまでも考えがゆれ、理解ができません。マインド・コントロールは「されに行く」力のほうが、コントロールをしようとする側よりも0.1%でも多くないと、信じようとする側が優勢でないと成り立たない関係ではないだろうかと、考えを詰めていくとそこへ行き着きます。なので液体を使った無差別殺人を行ったという行為について、実行犯だってマインド・コントロールをされた犠牲者ではないかという見かたの、まさにそこに境界があったとするのか、もう少し前にあるだろうとするのか。解脱という意味での「解ける」(輪廻からの解放)をめざしたいと思った人たちにとっての「解ける」は、きっと一般的に使われている「解ける」とは逆の意味ということもある。



 あずけてしまいたい



心を、意志を、意識を何者かにあずけてしまいたいという気持ちは瞬間レベルであればわたし自身も経験があるし、それが高頻度になってある程度の固まりになって、その意識の固まりがキャラクター化するような状態からそれが行動原理になって…、と想像してみれば、判断する意志のあずけ先を探しまわる人の気持ちもわかります。わかるせいかどうかは知りませんが、そのような状態の人を何人か見たことがあります。ヨガに詳しそうな人(わたし)のところへやってきて、「すごい人に遭いたいんです。誰のところへ行けばよいのか教えてください」「○○さんというかたは、すごい先生なんですよね?」という質問をする人をこれまで何人か見たことがあります。


そのなかで気づいたことがあります。「すごい先生」を探す人は、まるで価格.comというサイトで家電のスペックを比較するかのように師(グル)の比較をし、選ぼうとしていました。まず目の前にいる人が自分よりもじょうずにできるものがあればそこから習おうという気持ちにはならないようでした。そこをいっきにすっ飛ばして、とにかく最上を探し求める。
案内所の人のようなよくわからないポジションに勝手に置かれながら、とにかく最上を探し求める人には根本的に人をばかにしたところがあるように思うこともありました。わたしが全般的に「本格的なヨーガ」という言葉を使うことに慎重な理由には、このような経験が背後にあります。最上を探し求めるなかで「こいつならいいだろ」という態度が漏れている人から邪険にされた経験から、「本格」を求める気持ちに対して斜めに見てしまうところがあるのです。




わたしはどこでも失敗をしてきたので、根本的に人をばかにすると手痛い目に遭うことを経験上知っています。謙虚にならざるをえない法則のようなものを、まるでエクセルのセルをぐわっと掴んでぱっと手を離したら平均が計算されてしまったよ…というくらいありがちな頻度で経験してきました。Human being や道徳観などという知性ありげなものではなく、もっと日常的な「イテテ」の記憶と経験からの学び。経験から学んでも、忘れた瞬間にまた「イテテ」をやってしまう。


よい経験だけをあったことにして、よくない経験はなかったことにしたい。わたしもそうです。でも生きていると、どういうわけか恥をかきます。人に話しても、さらけ出しても、恥はなくなりません。
このことを思って以来、経験の平均の計算式の母数から恥や都合の悪い経験を省いてしまうことをしないように、それをしてしまうと自分に聖性がないということを証明することになると考えるようになりました。世の中にはむずかしい判断が多いけれど、その部分の自意識だけは失わないようにしなければならず、これを日々続けていくのは大変なことです。呼ばれたとか引き寄せとか運命とか言いたくなる気持ちもわかります。生きていくのはしんどいな…、と思うときは、いつもここについて再認識するときです。




ここしばらく、オウム真理教の事件で罰せられた人がどこに・なにに罪を感じるべきであったかということを考えることがありました。この事件と罰について語ることは、わたし個人がその人たちの「なにを罰したいか」ということを具現化させることでもあって、まるで神になったかのような視点で考える瞬間がやってくるたびに「同じ人間としてなにを罰したいかを考えなければいけないのだ」と自分を現実に引き戻して考え直しました。
そうしたなかでたどりついた考えは



"心を、意志を、意識をわたしにあずけなさいと神が言ったから" は、粗雑すぎる。
"心を、意識をわたしにあずけなさいと神が言ったから" までは、アートマンの領域かもしれない。
でも "意志" は、それはどさくさに混ぜちゃダメなやつじゃないか。それを失ったら個がなくなってしまう。
個はいらない、生きてても死んでてもかまわないとなったら、肉体をただの道具として扱うことになる。武器にもできる。



ということでした。
これは「案内所の人のようなよくわからないポジション」に勝手にわたしが設定され「すごい人に遭いたいんです。誰のところへ行けばよいのか教えてください」「○○さんというかたは、すごい先生なんですよね?」と言われたときに、漠然と感じていたことでもありました。すごいグルを探すために、いまこの人はしれっとわたしを踏みつける。あまりにもしれっとしていたために怒りにも悲しみにもはっきりとは到達しなかったけれど、そう感じていたのでした。



思いを言語化できるまでにはすごく時間がかかります。なので漠然と "あやしい" "あぶない" "どうなの" "やばい" というような言葉をひょいと選ぶことのないよう、まるで神が人を罰するかのようなフレーズを気安く用いないよう、今後も注意深くありたいです。わたしが固有名詞やグループ名を含む崇拝の話題を雑談で話すことを慎重に避けている理由は、このような自問自答からです。