思い込みの力を信じている人の話を聞くときには、その人が信じているものに水を差すようなことを言わない。
この境地へは、憎まれる前提で話を聴く経験を数え切れないくらい重ねないとたどり着けない。
わたしはこの練習を小学生の頃にはじめた。
それまで両親と3人のアパート暮らしだった世界が急速に拡張され、大きな一軒家へ移り、血縁・非血縁を問わず同居者が増えた時期があった。
新しい家へやって来た人が統一教会に入信してから、その人がどこかで仕入れてきた話を聴くことになった。当時その話に付き合える暇な人間はその家にわたししかいなかった。
壺に暗示されているものについて、その人の講釈を聴いていた。
それは二階の一室で行われていて、親が漠然と感知していたことを20年ほど経ってから知った。
こういう家庭内の非日常は密教化される。缶詰状態で何十年もそのまま保存できる。その家では信教の自由が遵守されていた。陰気な家ではなかった。レジャーも笑いもある、明るい家庭の雰囲気があった。
当時はテレビで霊の話がよくされていた。丹波哲郎というやたら声のいい壮年タレントがその分野で大活躍していた。テレビ番組の中でも、今よりスピリチュアルな話をする軽さがあった。
働き盛りの30代の両親はそれを当然の距離で退けて信者にならなかったけれど、ジャパンライフという高機能すぎる寝具や、当時は先端だったウインドエアコンなど、両親と友人のように親しげに振る舞う他人が気安く家に出入りして高額商品が設置されていく時期があった。
あのちぐはぐな景気は10年も続かなかったんじゃないだろうか。
わたしは10代後半でそこから脱出し、当時の記憶の多くを消した。
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自分が50歳に近づく頃から、あのころ統一教会に入信した人の気持ちを考えるようになった。強烈なきっかけがあった。元首相が殺される事件をきっかけに、懐かしい記憶が解凍された。
わたしは家にいたその人を、安定した国営事業の組織で働く夫と結婚したが子宝に恵まれなかった主婦として見るようになった。彼女と夫は養子を迎え、その子を育て、その子はやがて結婚をし子を産んだ。この血の繋がっていない孫が、彼女にとってのわたしだった。
孫と暮らしはじめてほんの数年で、彼女は夫に先立たれた。
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壺の話は休みの日や下校後に仏壇の部屋で聴いていた。
小学生のわたしには、なんとなく彼女が職業を持つ人のように見えていた。
朝から夕方まで学校へ行っていたから、昼間に家族が何をしているか想像したことがなかった。ただなんとなく、昼間にどこかへ出かけて仕事のようなことをしているのだと思っていた。
統一教会の催しが近くなると、彼女は少女のようにキャピキャピして、やさしくなった。その催しの旅から戻ったあともキャピキャピが続いた。
それは今で言ったら推し活といわれるような効力があって、その余韻がなくなるとわたしたちの仲は険悪になった。彼女はわたしに「憎たらしい子だね」と言った。
わたしは当時から、彼女が信じているのが「神」じゃないことをなんとなく知っていた。彼女が信じていたのは「霊」だった。
だから「憎たらしい子だね」と言われても、自分が世界から憎まれるべき人間と思うことがなかった。おばあちゃんの言うことは霊が、壺が決めていると思っていた。
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関係性という概念を取り払って他者へ愛情を向けることを知らない人間にとって、関係性が固定された中で行われるコミュニケーションは安心と安全の塊で、こんなに楽しいことはない。だからどんどんハマる。
わたしにとっては公文(KUMON)が、おばあちゃんにとっての統一教会のような場所だった。公文の先生をスーパーで見かけると心がざわついた。
それがだんだんそうでなくなっていく過程で、わたしは義務と役割の感覚を学んだ。人間の関係性が流動的であることを知った。
読み書きや計算よりも大切なことをそこで教わった。
(この話は身近なフィクションです)