はじまりまで遡ると、たぶん2019年に「国際ロマンスかつあげ」の経験談を書いたのが、わたしのそれの兆しです。
国際ロマンス詐欺に遭ったと話すたびに「結局詐欺には遭ってないよね」「もうそれを詐欺というのは詐欺」と友人から言われるので、今日から「国際ロマンスかつあげ」にしました。
こんなこと他の人にとってはどうでもいいのかもしれないけど、わたしにとっては蓋をしていた自分の一面を知るおそろしい機会だったの! という出来事があったときに、わたしはそれを文章にしたくなります。
友人から聞いた話に対しても、同じ気持ちが起こります。
文字で物語に落とし込んで他人に見せる行為としてのお焚き上げには、儀式のもたらす効用があります。
人生には小さな数奇な出来事がたくさんあります。
仲がよく見える人同士の間で交わされている会話がホラーだったり、他人の承認欲求を見下している人の Instagram のハイライトがミシン目かってくらい、ストーリーズの膨大な蓄積であったり。
わたしはそういうことも人生の機微と捉え、できればどこにも着地させないまま書きたいと思っています。着地はAでもBでも、Cでもいいことがほとんどだから。
「ほんとうのこと」をもっと書きたいと思うようになりました。
ポジティブシンキングの手前のところを書きたくて。
これはわたしがヨガでお会いする人からたまに言われるフレーズです。
「うちこさんにも、そういうことがあったんですか」
「うちこさんも、同じ目に遭ったの?!」
これを言われるたびに「もう気にしていないだけで、経験はしたよ」と思っています。
コケにされたり見下されたりいじわるされたり利用されたり、「こいつならええやろ」という扱いをされたことは数知れず。生まれながらにして王族、という人生ではないのでね。
それをいつまでも反芻して卑屈になるところまではまああるとして、そこから異様に丁寧になるのはとてもとても日本的。
日本社会のコミュニケーションに、マナーというパッケージに入った防御のアイテムがあふれているのはこのせいじゃないかと思っています。
でね。
こういうことって、そのまま書くといろいろ支障があります。
「その傷つき、待ってました!」とばかりに人が寄ってくる現象とインターネットって、すごく相性がいいんです。買うのは恥ずかしいけど病院では手にする『女性自身』。という現象が、見えないだけでわんさと起きてる。
不幸マーケティングをやめたとたんに数字が落ちるスパイラルは特にネットだとアクセスがわかりやすく可視化されるため、本音を語る体裁の人の多くがこの仕組みにハマっていきます。
で、どうするか。
そういう話はフィクションとして書くことにしました。
コケにされたり見下されたりいじわるされたり利用されたりといったことは、人間交差点を渡って向こう側へ行こうとすれば、けっこうな確率で遭遇することです。
人権意識の高まりとともに弱者が承認されやすい世の中になってきたけれど、それに対して、わたしは誰かと一緒になって怒りたくなることもあれば、辟易することもあります。
この境界って、なんなのだろう。
わたしは弱者という定義が後付けのように感じるときに、ほのかな疑問を抱きます。
こういうことを、どちらが弱者か定義せずに書きたい。
今後はそれをフィクションとして書きます。カテゴリ名は「身近なフィクション」。
もしそんな話が登場したら、わたしや、わたしの知っている誰かの話です。
どうぞ驚かずにお付き合いください。