うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

(再読)インテグラル・ヨーガ ― パタンジャリのヨーガ・スートラ スワミ・サッチダーナンダ/伊藤久子 訳

15年ぶりにこの本をじっくり再読しました。

主要な節を参照するために何度も開いたことはあったけど、最初から最後までじっくり読んだのは15年ぶりです。(2008年の感想はこちら

 

再読したら、これまでの自分を知ることが多くて驚きました。

え、こんな本だったっけ? と、過去に付箋を貼った箇所を見つめながら、かつての自分と対話しながら読む心の時間旅行。

 

15年前のわたしは「お勉強」としてヨーガ・スートラを読んでいたのでした。

それが長い年月をかけて、やっと生活に身近な聖典と感じられるようになりました。

ヨーガ・スートラを片手に、心の中にセルフ・カウンセリング・ルームを作っているかのような、心の再構築。いろんな料理を先に食べてからレシピ本を見て「ああ、なるほどこうしてこういう味になったのか」と理解するのに似た、逆引きの発見がありました。

 

 

同時に、今回は書物のアウトラインや要素の中にある以下のことにも目が向きました。

 

  1. 第一章と第二章に多くのページが割かれていることを当然と思えた。
  2. ガンジーへの言及が、偉人聖人100%のニュアンスではないことに疑問を抱かず読めた。
  3. 語り手の居場所(旧来のキリスト教へのカウンター・カルチャー全盛期の60年代後半のアメリカ)と、ドラッグへの言及が多い理由がわかった。
  4. インドの定番ネタのようなものに抵抗がなくなっていた(婚姻システムとか)。
  5. ダジャレに以前よりも反応できた。

 

 

わたしの場合はこういう感じになるまでに15年かかりました。

そのあとでティーチャー・トレーニングのノートを読み直したら、なんだかまたうれしくて。先生はこんな話をしてくれていたのかと。

この気持ちは、先日もう一つのブログに書きました。

 

 

もし手元に同じ本がある、「この本、昔読んだわ・・・」というかたは、ぜひ再読してみてください。

長くなりますが、先にリストした1~5について、わたしの場合はこうでしたというのを書きます。

 

 

1:第一章と第二章に多くのページが割かれていることを当然と思えた

最初の読書では、単純にボリュームの配分としてなんで前半の章ばかり解説されるのだろうと思っていました。

「こんなことができるようになる」という能力の成果のところは端折っていいにしても、説明にかけるエネルギーにずいぶん差があるな、と思っていました。

ですが、あとがきに以下のように語られている通りで、最後に大きな納得感がありました。

今までの四つの部門はすべて、この二つのスートラ(第1章2節と第3章節)の説明だったわけである。

 

 

2:ガンジーへの言及が、偉人聖人100%のニュアンスではないことに疑問を抱かず読めた

世界史の教科書にも登場したガンジー。わたしの世代の教育では、インドの植民地時代から独立までの背景を考えてみようと思う前に「偉人聖人と呼ばれた人」として名前をインプットされてしまいます。

この15年の間にインド近代史とあわせてガンジーの自伝も読み、その内省のすごさを知ることで、以下のような話され方が疑問なくすんなり入りました。

マハートマー・ガンディーは、アヒンサーの実践と普及に全力を尽くし、多くの人々を一つに結びつけた。もちろん彼の試みの中には失敗もあったが、「私は今も努力している、私はそれほど完全ではない」と認めている。

(第2章35節の解説より)

 

 

3:語り手の居場所と、ドラッグへの言及が多い理由がわかった

語り手をインドにいる人と思っていたら、違いました。

有名なインド人グルがアメリカへ渡ったタイミングを確認したら、マハリシの約10年後にアメリカへ行った人物であることがわかり、アシッドやドラッグへの言及が多い理由がわかりました。

 

第二章の冒頭で、ヨーガ・スートラにあるクリヤー・ヨーガとパラマハンサ・ヨガナンダが宣教したクリヤ・ヨーガは同じじゃないよ、という説明が小さく載っている理由も納得。

時代ね。

 

 

4:インドの定番ネタのようなものに抵抗がなくなっていた

説法の中で「インドの諺に、こういうものがある」という前置きで登場する話に、「これはあの人があのとき言ってたのと同じだ」と思うものがいくつもあって、唐突に感じなくなっていました。

 

われわれは母を通して父を知る。母の助けがなかったら、およそ父を知ることはできない。彼女だけが、われわれに、われわれの父が誰なのかを教えてくれる。だから、まず自然をよく知れ。

(第2章22節の解説より)

これは、ピントゥ君から聞いた話と似ていました。

▼この話です

 

 

 

南インドの諺に、 “胃はパンを欲しがって泣き、髪は花飾りを欲しがって泣く” というのがある。どちらがより大切だろう? 髪は花飾りがなくても生きていけるが、胃は一山のパンなしではやっていけない。だから、まず胃を満足させよう、そしてお金が余ったら、いくらでも花飾りを買えばいい。

(第2章33節の解説より)

これは、哲学の授業で先生が「今まさに砂漠で水を欲しがっている人にバガヴァッド・ギーターを渡してもしょうがないよね」と話されたことがあって、そのときのことを思い出しました。

 

 

 

昨今では “婚前テスト” に興味を持つ人が多い。それは、店へ行ってりんごの値段を聞いているか何かのようである。「一ドルです」と店の主人が答えるので、「美味しいですか?」と聞く。「もちろん!」と答えると、「それをちょっと試食したいんですが……」。

(第2章38節の解説より)

わたしが最初にヨガを習った先生が、よく「結婚は毒リンゴね。食べてみなくちゃわからないね。うふふ」と話していて、最初から「毒」をつけちゃうのがおもしろいなぁと思っていたのですが、こういう話し方って、なんかインド的な「型」なんですよね。

▼ちょっと書いたことがあります。

 

 

ヒンドゥーの婚姻制度は、この理念の上に成り立っている。いったん生涯の伴侶と決めたならば、妻となった人は夫にとって女神であり、夫は妻にとって神である。どちらか一方が先に死んだら、残された者は世捨て人としてその人の思い出に生きて、二度と結婚をしない。

(第2章47節の解説より)

戯曲や神話を読んだり解説を何度も見ることで、だんだんこういう話にも驚かなくなっており、スッと読めました。

 

▼近頃はYoutubeで面白く解説してくれる人がいて、いい時代です。

 

 

5:ダジャレに以前よりも反応できた

わたしも年齢を重ね、近ごろはベタなギャグに癒やされるようになってきました。

若い頃は「うわ、オヤジギャグ。うっざ・・・」という反応が立ち上がったのですが、それがなくなってきて、今回は「うまいこと言う!」と反応し、かつ沁みました。

 われわれはあれこれの小物をつかむためにここにいるのではない。あなたが捕えることができる最大の魚は何か? それは “利己性という名の魚(self-fish)” である。その魚を釣り上げよ。

(第3章56節の解説より)

笑いのセンサーって、人生経験で変わるの?

わたしが何か特別なものを掴もうとするお勉強モードじゃなくなったから、シンプルに「ベタやな〜」と思えたのか。

 

 

 

  *   *   *

 

 

 

以前はお勉強モードだったと書きましたが、そういう時期を経て、そして何年も寝かせた時間があってからの、いまの感じです。

わたしの場合は、この聖典と人生経験を縫い合わせるような読み方をするタイミングが、かなり後になってやってきました。

 

 

手元にはこの本が、日本語版と英語版、二冊あります。

 

右の英語版は、ティーチャー・トレーニング中に同室だった仲間が帰国する際に、荷物を減らしたくて置いていってくれたもの。たくさんの書き込みがあって、性の悩みまで書き込まれています。

わたしは仲間のこの読み方を見てから、聖典を読むときに、そこで起こった思いを付箋に書いて貼るようになりました。

この方法でいくつかヨーガの聖典を読んできましたが、ヨーガ・スートラはこういう読み方をするのに最適。

これをやると、まるで映画のセットをこしらえるように、心の中にセルフ・カウンセリング・ルームを作ることができます。ほんとよ。試しにやってみて。タイムカプセルみたいになるから。

これは "お勉強" じゃないの。どちらかというと、"事情聴取" って感じ。振り返れると、すっきりしますよ。