『ヨーガ・ヴァーシシュタ』は、繰り返し読んでいくとヨーガの教えを寓話とともに伝えている書物なんだな、ということが少しずつ見えてくる本で、講義のような解説が第3章の『ラヴァナ王の物語』のなかで展開されています。
- 無知へと下降する七つの段階
- 叡智へと上昇する七つの段階
ヨーガの心理学はなにかと数え上げるのが特徴で、○○は○つある、これと、これと、これと、これだ。みたいなのが多いです。
ヨーガ・スートラでも、有名な八肢則もそうですが、煩悩は5つある、とかね。
サーンキヤ・カーリカーなんて、ずっと数えてばっかりです。
無知へと下降する七つの段階
無知へと下降する七つの段階は、よく登場する意識の四状態(熟眠位・夢眠位・覚醒位・第四位)をブレイクダウンしたような内容で、以下のように書かれています。
真我の知識を覆い隠す妄想には七つの層がある。
(1)目覚めの種子の状態
(2)目覚め
(3)大いなる目覚め
(4)目覚めた夢見
(5)夢見
(6)目覚めながらの夢(白昼夢)
(7)眠り
詳しい説明は実際に本を読むとヴァシシュタ仙が細かく教えてくれます。
第4章ではラーマが目覚めと夢見の状態について質問をし、さらに掘り下げられる場面があります。
ラーマは尋ねた。
賢者よ。目覚めと夢見の状態の本性とは何なのでしょうか?
ヴァシシュタは答えた。
継続する状態が目覚めと呼ばれ、一時的な状態は夢見と呼ばれる。夢が起こっている間は、夢も目覚めの状態と同じ性質になる。そして、目覚めの状態が本質的に儚いものであることを悟ったとき、それは夢と同じ性質になる。いずれにせよ、二つの状態は実質的に同じものなのだ。
(114より)
意識の四状態の「第四位」についても、第4章で以下のように簡潔に語られます。
深い眠りの中でも目覚めている意識、目覚めと夢見の状態でも輝く光である意識、それが超越意識、トゥリーヤだ。
ここは掘り下げると長くなるので、またいつか。
叡智へと上昇する七つの段階
無知へと下降する七つの段階のあとに、叡智へと上昇する七つの段階が語られます。
(1)純粋な願望、意図
(2)探求
(3)精妙な心
(4)真理の中に確立される
(5)執着や束縛からの完全な解放
(6)対象化の終焉
(7)このすべてを超えたもの
これは第6章でじっくりおさらいがある、とても大切な教えです。
この7つについて、もう少し文字の多い別のバージョンの日本語訳が手元にあるのでご紹介します。
『宗教詩ビージャク カビールの詩』橋本泰元(訳注)のラマイニー37の4の注釈・解説にありました。
(1)吉祥なる意欲:真実在を獲得しようとする意欲
(2)正しい思念:導師の教えを深く思念すること
(3)意(思考器官)の抑制:意のなかの多くの事物に対する欲望を減少させ、真実に集中させること
(4)心の純質の完全な状態であり、意識のある(有想)段階
(5)対象に対する執着が完全になくなる「無執着」の段階
(6)至高の対象以外に対する意識がまったくない状態
(7)覚醒の状態、至高の存在(ブラフマン)と合一した状態
このカビールの詩の解説を読むと、第三段階以降はヨーガ・スートラの教えにあるものと共通していることがわかります。
教えについては文字列を読んで知っているという知識だけのわたしにとって、ヨーガ・ヴァーシシュタで語られる第一段階・第二段階は心の実情に迫るもの。直接響いてくる語りかけです。
ヴァシシュタ仙はこのように説明を続けます。
「なぜ私はいつまでも愚かなままなのか? 聖者と聖典を探し求めて執着のない心を培おう」。このような願望を抱くことが第一段階だ。そして、第二段階になると真我探求の修練(直接の観察)に従事しはじめる。
(99より)
「なぜ私はいつまでも愚かなままなのか?」からはじまる。
わたしはここを読んだときに「そこか!」と、思いました。
たまになんで教典や聖典を読み続けているのだろうと思うことがあって、その理由は漠然としていたのですが、わたしの感じる興味を掘っていくと、そこには「あの失敗をもうしたくない」があるのです。
「あの失敗」は行動の選択だけでなく思考の選択にも多くあります。なにかを疑って失敗したり、疑わずに失敗したり。
それらの経験を腐葉土に変えていく ”はたらき” のようなものとして、ヨーガの教えが機能的であるところに光を感じているのだと、そういうことに気づかせてくれる教えが「ラヴァナ王」の物語のなかで展開されていました。
わたしの場合はそうでした。