「第六講」に引き続き、サマーディとサマーパッティのあたりです。
ヨーガスートラの1章17節と連動する42節の有尋定・43節の無尋定の記述は、構成上くっつけておいて欲しい気もするし、「なんでわざわざ三昧を二つに分けてそんなに長く語るのか」という気もして、読むのに根気が要ります。でもここで食らいついていかないと、「意識の言語」を血肉化できません。
この佐保田先生の講座に、1章42節の有尋定、43節の無尋定について語られている箇所で「分別知」についてゆるゆる語られている箇所がありました。
わたしはよく「インド人はとにかく要素をドライに分解する技術がすごい」と言っていますが、日本人は「空気」でそれをやる民族なので、分解して明言化する過程で照れたりしますね。でもこの照れみたいなのがあると、正直いつまでたっても理解できないと思います。
我々の普通の認識、普通の知識っていいますのは、そういうように観念と対象とそれからその観念をあらわす言葉と、この三つに普通は分けますね。もっと考えればもっと分けられるかも知れんけど、だいたいはそういうふうに分ける。そういう三つに分けるそういう思考の仕方が分別知なんですね。そういう分別知をもっているところの三昧であると。三昧といってもまた分別はあるんです。これは言葉である、これは言葉の観念である、これはその観念の対象である、というふうに、三つに分ける知識が残っておる、それはつまり有尋三昧なんです。
(つづき)
ところが分別知という言葉、ヴィカルパという言葉は、一の九のところでは、別の解釈があるんです。そこでは、ヴィカルパというのは、「単に言葉の上だけの知識であって客観的な対象をもっておらん」と、こう定義してあるんですね。そういう知識がヴィカルパというんだと、こういう定義もあるわけですね。同じ書物の中に。
そうしますと、今言うた定義の方は、前の定義よりも、これは狭い意味に理解しておると、こういうことになるわけです。狭い方の意味は、これは『ヨーガ・スートラ』特別の定義であって、むしろ広い意味の方、つまり言葉と観念とそれからそれの関係する客体と、その三つを区別する知識と、いう意味のほうが、どちらかと言うと一般的なんです。仏教で言うところの分別知というのを、これに近い意味だと、こうみていいと思いますね。
1章6&9&42に出てくる分別知。ここは言い間違えか聞き間違えだと思うのですが、「ヴィカルパ」が「ヴィタルカ」と刷られていました。(上記は差し替えて転記しています。こういう微妙な間違いは、起こりやすいよなー、と思う。インド思想は話すほうもテキスト化するのも、ほんとに集中力が要るのでね)。
この二つの言葉の違いは勉強になるので、演習を兼ねて整理しておくと、「解説 ヨーガ・スートラ」の佐保田ワールドでは
- vikalpa=1章6節と9節では「単に言葉の上だけの知識。客観的な対象をもっていない」となっているが、基本的には1章「観念・対象・その観念をあらわす言葉に分けて理解すること」をさす
- vitarka=1章17節と43節、2章33節に登場。仏教だと「あれか、これかと尋ね求める心」だそうで、2章33節では便宜上「妄想」と訳している
という状況です。
で、英文の辞書を引くとどっちにも「fancy」という単語が含まれていておもしろいのですが、
- vikalpa=探求されていない信念、イマジネーション
- vitarka=推理推測どまり
というニュアンスがあります。「vikalpa」のほうが、これから練習する前提が漂う。
佐保田先生の訳は、一節ごとの世界観を追求している傾向があり、そのわかりやすさのために便宜上用いる訳を、ほかの場面出てくる単語の訳にあてはめるとちと違う、ということが多いです。
これはとても多くの学びのきっかけを与えてくれるもので、正しい正しくないの感覚で話すのはナンセンスというか、まあわたしは独学してるだけのOLなので、普通に辞書を引いたり他の場面で出てくる単語を参照しながら考えます。
- 「vi」は智慧にまつわる。ヴィヴェーカ、びべたんの、「ヴぃ」
- 「kalpa」はサンカルパもそうだけど、「kaplana(イマジネーション、思考)」にまつわる
- 「tarka」は学びのプロセスやロジックにまつわる
こういうふうに覚えていくと、あとでなにかと繋がったりします。
さらに、「ヴェーダーンタ思想の展開」P345に、「三昧を分別をもつ三昧と分別をもたない三昧とを分ける考えが、いつごろから起こったかは問題である。」という書き出しの説明があります。少し整形して続きを引用すると
有分別と無分別とを対立させて考える仕方は、仏教においてはかなり古くから行なわれていた。『具舎論』によると、分別を三種にわかち、
- 自性分別(svabhava-vikalpa)
- 計度分別(abhinirupana-vikalpa)
- 随念分別(anusmarana-vikalpa)
として、第一のものを有分別、後の二つを無分別と規定した。この区別は、さらにガウダパーダの『マーンドゥーキヤ詩』によって採用され、後世では、インド一般に用いられるようになった。無分別智は唯識説で特に強調する。
三昧なるものは、明らかにヨーガ派あるいは仏教などの影響をうけて、ヴェーダーンタ学派がとり入れたものである。
もうかなり進んだ脳科学の域。やっぱりこの頃のヨーガと仏教では、圧倒的に仏教の方が細かく見えている気がします。だからこそ、あんなにも厳しいのだろうなぁ。
今日の内容の中では、「ファンシー」というのが個人的にツボでした。
(この本は京都にある日本ヨーガ禅道院で購入できます)
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