うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

インテグラル・ヨーガ ― パタンジャリのヨーガ・スートラ スワミ・サッチダーナンダ

インテグラル・ヨーガ―パタンジャリの
お正月に読みました。今年一冊目の本の紹介はこれにしようと思いました。
「ヨーガ・スートラ」自体は、過去にここで佐保田先生の「ヨーガ根本教典」「続・ヨーガ根本教典」の感想を紹介していますが、この本はシュリー・スワミ・サッチダーナンダ師自身が行った弟子への講話集です。たとえなどが非常にわかりやすく読みやすいので、先の2冊よりもパタンジャリのヨーガ・スートラに興味がある人におすすめしやすいです。日本語訳もとても丁寧です。

いくつか、引用して紹介します。

<152ページ サーダナ・パダ 〜実修部門〜 より>
本当は誰が病気なのか? もし身体が痛むのなら、"身体が"病気なのであって、あなたがではない。この真理を忘れるとき、われわれはいつも基本的な無知、つまり<自己>ならざるものに巻き込まれる。われわれは同じ無知な誤りを、心についてもやってしまう。そして「私は幸せです」とか「私は無知です」などと言ってしまう。「幸せだ」と思うこと、あるいは「恐ろしい」とか「腹立たしい」とか「多くのことを知っている」とか「何も知らない」というのはすべて、心の作用(状態)、つまり感じなのである。そのことがわかったら、この世でわれわれを乱すことのできるものは何もない。

これはヨガをはじめてから知らず知らずのうちに心に染みついていた不思議な感覚なのですが、仕事の場面での「指摘」に対して、まるでその人自身を否定されたかのような過剰反応をする人がいて、そのたびに「この部分への指摘です」と言わないといけないときがあります。それと同じ感じかな。

<154ページ サーダナ・パダ 〜実修部門〜 より>
(とぐろ巻きになったロープを蛇と見間違えて驚く実例の後に)つまり、薄明が一番危険な時なのである。なぜだろう? それは、完全な闇の中ならロープも蛇も見えない。そして、明るい昼間の光の中なら、ロープはどう見てもロープである。ただぼんやりとした光の中でのみ、人はロープをヘビと見間違える。だから、あなたがもし完全な無知、つまり暗闇の中で手探りしているだけであれば、あなたはその"ロープ"さえ見えず―つまりこの世の"苦"も見えず―したがって真実を知りたいとも思わない。だからヨーガは、光を得た人のためにあるものでもなければ、何も知ろうとしない完全な無知の人のためにあるものではない。それは、その境目にいる人のためのものだ。ヨーガが修行されるのは、この無知〔無明〕を払い去るためである。

「薄明が一番危険な時」というのは、いつも肝に銘じなければいけないですね。「できるか、できないか」という心境で起こるドキドキ感は、「明らかにやろうとしていないでしょ、本当は」と言われても、胸を張って「やろうとしている」といえる領域である、というとらえかたもできます。

<288ページ ヴィブーティ・パダ 〜成就部門〜 より>
サンヤマ〔綜制〕の終了によって、知の光が生まれる。
これは、"サンヤマを施すと、その対象の背後にある真理が知られる"という意味である。それがいわゆる"発見(discovery)"である。その真理は、以前は"覆い隠されて(covered)"いた、だからわれわれはその"覆いを取る(dis-cover)"。誰かが何かを新しく作り出すのではない。ただ何らかの真理が隠されていた、サンヤマによってそれが何だったのかがわかった、ということだ。それが、"発見"の真の意味である。

これは、トリビア的に普通に「おお!」と思いました。「breakfast=断食を破る=朝食」というのを知ったときと同じような。


ヨーガに興味がない限り、すすめても胡散臭がられてしまいそうではあるのですが、すごく心によいことがたくさん書いてあります。