うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ブッダが説いた幸せな生き方 今枝由郎 著

紀伊国屋書店が開催するイベントで著者の今枝さんがお話しされている内容に触れてすっかりファンになり、さっそくこの本を読みました。

これまでに著作を4冊読んだことがあり、その題材のセレクトから、おもしろい人なんだろうな……と思っていました。

お話されている様子を見たらとても明るくすてきな方で、サキャ・パンディタドゥクパ・クンレーのようなパンチのありすぎる人物をチョイスするそのエネルギーには、やっぱりこういう好奇心があるのだなと、何時間でもお話を聞いていたい感じでした。

 

 

この『ブッダが説いた幸せな生き方』という本は、ブッダが生きていた間のこと・その後の歴史がわかりやすく説明されているほか、ヴェーダの伝承との文化的な共通点と違い、ブッダが変えようとしたことやポリシーとして打ち立てたことも丁寧に補足解説があって、ヨーガの伝統と比較して読んでもおもしろい本です。

わたしは以下の点を興味深く読みました。

 

  • ドゥッカの日本語訳
  • 仏教のオープンなところ・バラモン教の秘儀的なところ
  • IQEQの両輪
  • 聖典・経典の編纂と伝承

 

ドゥッカの日本語訳

「苦しみ」についての本題のあとに補足として語られていた以下がすごくわかりやすくて、紹介したくなりました。

 ところで、いままで「苦」「苦しみ」ということばを説明せずに使ってきましたが、仏教用語としての原語はサンスクリット語パーリ語ともに「ドゥッカ」で、「不完全さ、空しさ、実質のなさ」といった深い意味があります。それゆえに、人間からすれば「思いのままにならずに、満足できないこと」全般を指すことになります。ところが日本語の苦しみということばは、ブッダがドゥッカということばで意図したことの全体を正しく伝えていません。

3章 ブッダが「目覚め」たこと/苦しみ より)

ドゥッカはヨーガ・スートラにも出てくることばで、心の散動に随伴して起こってくるものとされ(131節)、その心の散動リスト(130節)の中に「無気力」や「散漫」「不動の境地に至り得ない状態」などが挙げられています。

ドゥッカを「苦」と訳すと、なにか具体的な問題を抱えた状態を想起させるのですが、実際のところは思春期っぽいものまで含まれています。

「やりたいことが見つからなくて苦しい」は、贅沢な悩みではなく、苦しみの範囲に入ります。

 

 

仏教のオープンなところ・バラモン教の秘儀的なところ

いまでいう「心理的安全性」のようなことまでブッダは配慮していた。というふうに読める以下がとても印象に残りました。

 ブッダは、すべての人に率直にものごとを話しました。そして自分は特定の弟子だけに秘儀を教えたりとか、他の弟子には何かを隠したりすることはいっさいない、と述べています。

3章 ブッダが「目覚め」たこと/疑念の払拭 より)

 

(上記の文の注釈)

バラモン教では、師資相承で教えを伝えるのが伝統的で、秘儀は師の掌の中にあって、掌は容易に開くものではない、とされていました。ブッダはそれを暗に、しかし強く批判しています。

ヨガの古い教典の世界は完全にバラモン教のそれと同じなのですが、「この秘密は他の人に漏らしてはいけない」という内容がなぜ書物に残されているのか、漏れとるやないかーい! というツッコミどころがあったりもします。

こういう話を読むたびに、空海さまが最澄さまに対し「ごめん、リクエストされたけど理趣経は貸せない」となった理由を想像し、ああそうかこういうところが仏教だけど「密教」なのかと思ったりします。

 

 

EQIQの両輪

以下はビジネスのスキルの分野で一時期よく語られたEQIQの両輪のような話です。

ブッダによれば、人間が完全であるためには、注意深く啓発しなくてはならない二つの資質があり、一つは慈しみであり、一つは叡智です。慈しみは、愛、慈善、親切さ、寛容といった情緒的な気高い資質であり、叡智は、人間の知的な心の資質です。

3章 ブッダが「目覚め」たこと/三学 より)

同じ瞑想でも、ヨガの文脈ではなく禅や仏教からの文脈で企業が「マインドフルネス」として取り入れたくなる、その根拠がこの本を読むと見えてきます。

 

 

聖典・経典の編纂と伝承

ブッダ35歳で目覚めて以後80歳まで、45年の間に教えを説き、思想は体系化されていたものの、伝え方には新旧の差があり、表現を変えたり簡略化したり、逆に深めて広大にしたり、という違いが初期仏典のなかに見られるそうです。

ブッダ本人の在世中は弟子が直接質問をして確認をすることができたけれど、いなくなってからは弟子たちが記憶をすり合わせたり確認したりしていた。

そこからの歴史の流れの以下の部分をたいへん興味深く読みました。

これがいわゆる「第一結集」で、一種の編纂会議のようなものです。ですから、この編纂会議で決定されたことはすべて「如是我聞(私〔たち〕は〔ブッダから〕次のように聴いた)」という定型句から始まっています。こうして全員の承認を得られたものがブッダのことば(すなわちスートラ、「経」)とされ、それが暗唱され、口承により伝授されることになりました。インドでの口承伝授は極めて正確なことが知られており、仏典の聖典も、バラモン教聖典である『ヴェーダ』の伝統に劣らず、一字一句違えることなく伝えられることに全力が注がれました。

3章 ブッダが「目覚め」たこと/ブッダの教えの編纂と伝承 より)

ヨーガ・スートラのパタンジャリは「編纂者」なのだけど、思想家のように思う人もいます。読んでいると、そうなるんですよね。

だけど実際は、松尾芭蕉の句のような本人書き下ろしの感じではないはずで、スートラを編纂するという行為や、コメンタリー、解説者にも権威があるという文化に馴染みがないと、なんか思想家みたいに見えてきちゃう。

中国や日本のように本人が書を残すのではなく、口伝&コメンタリーで伝わっていくインドの文化の独特なところだなと思います。

 

 

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著者の今枝さんは「日本語はずっと変化し続けているから」という理由で、今の感覚で入ってきやすい文章でブッダの言葉を届けようと尽力されていて、同時に他の本も読んでいるのですが、とにかくなめらかにまろやかに入ってきます。

昔の漢文の要素が混じったエスプレッソみたいな日本語じゃなく、中村元先生の日本語がコーヒーのようなド定番を打ち出したのだとしたら、今枝さんの訳はカフェオレやラテのよう。いまどきの生活のなかで、リラックスして読めるブッダの教えです。