うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

昼間の練習の最後にヨガニードラを入れている理由「ヨガはセラピーだから」

先日、はじめて銀座のヨガクラスにおいでいただいたかたの言葉をきっかけにわたしの思いを話したら意外とタテノリだったので、ここであらためて文章化します。そのかたはわたしが定常どおりにお尋ねする「どこかケガをしている場所とか、すごく疲れているところとかありますか?」という問いに「うーん、こころ」とおっしゃったのでした。「であれば、このクラスは楽しいと思いますよ」とお答えしました。ヨガニードラのあるクラスでした。
わたしは昼間のクラスで会場がそれに不向きでない限りはできるだけヨガニードラをメニューに入れ込むようにしています。その理由を、かつての自分の経験からこんなふうに話しました。

 

 

 ポーズをしながら着替えのことや帰り支度のことを先取りしたり
 効率性の計算や競争心を発動させなくてよいよう
 ここでは、ヨガニードラも練習のメニューに含めています

 

 

わたしは自分が生徒として練習に行く場で、ポーズの終盤に更衣室でのTODOやシャワーのこと考えたりマットを敷く時点で帰りの手順の効率性を考えたりしている、そういうムードがなければもっと自分を解放できるのにな…と思うことがこれまでにたくさんあったので、その思いを自主開催クラスの構成に反映しています。
わたしが練習の場を作るとしたら、練習をする人が "自分のために" と思って設定した練習の時間と日常の境界をあいまいにしないためのコース整備をすることも役割のひとつかなと、そんなことを考えました。こういう思いは外に出さずにやってきたのですが、意識として明確にそれがあることに、このときスラスラと話せていたことで気がつきました。


ヨーガニドラのスクリプトからサンカルパのプロセスを抜かないことも最初のマントラも最後のOMマントラも、構成をずっと変えずにやっています。理由は説明しないけれど、自身の中の変化を通じて気づいたほうが宝物になる要素はなるべく言葉にしないようにしています。ちょっとスピリチュアルめいたフレーズにもなってしまうし。
わたしがインドでヨガ漬けのトレーニングを受けた学校はアーサナの先生とインド心理学・思想・神話学を教える先生が別の先生でしたが、わたしはインドの心理学について学ぶ時間に「アシュタンガ・ヴィンヤサ・ヨーガのシークエンスもセラピーで、身体のためだけのものではない」と教わってきました。

 

その日はヨガはセラピーなのでということも話したのですが、わたしはヨガの練習の背景にあるインドの心理学にずっと支えられてきているところがあるので、そこを大切にしています。練習と瞑想の時間は、罪障感にさいなまれがちな毎日のなかで自分の清い部分に意識を向けることのできる、とても輝かしい時間です。
インドの心理学については以前こんなことを書きましたので、まだ読んだことのないかたはご参考までにどうぞ。