うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

浜菊 伊藤左千夫 著

日本語は「純粋」や「素朴」という言葉が都会よりも田舎と結びつけられやすい。なぜだろう。
純粋に華やかさに惹かれて都会へ出てチャラチャラすることもあるだろうし、素朴にムラムラして田舎の野道ですれ違った女性を襲うこともあるだろう。
この小説は、わたしがかねがね不思議だなと思ってきたことが書かれていました。わたしは洗練と粗野のグラデーションの中間にあるマジックワードが苦手で、いつもうまく使えません。
サンスクリットの辞書を引いていると、人間の性質を示すときに使う「純粋」は「生まれたての」というよりも「浄化された」「洗練された」「聖性の」というふうに自ら不浄や悪魔性の存在を認めたうえで清くなろうとする主体性を持つことが多く、わたしにはこちらのほうがしっくりくる。「純粋な赤ちゃんのようなすべすべ肌」というフレーズにマッチする "純粋"よりも、「赤ちゃんにはなるべく純粋なものを与えたい」というフレーズにマッチする "純粋"。浄化したくてがんばって浄化した、という意思と手数を踏んだ純粋。

 

日本語の「純粋」「ピュア」は、実は「従順」「懐柔しやすい」という意味であることがなにげに多くて、馬鹿・情弱・思考停止・お人好しなどと区別がつきにくいこともあり、自分でも使った瞬間同時に「逆に失礼な感じになっていないか?」「自分は内心相手を見下しているのだろうか…」と混乱します。言葉の中に共依存的メカニズムが内包されている。

洗練された大人になりたくて尊敬する人に従って頑張っているうちに、目的と手段が逆転して従順で純粋な大人ができあがってしまったりする。アドラーの本が「嫌われる勇気」というタイトルで売れたのは、日本語の性質によるものではないか。常日頃そんな仮説を持っているわたしにとって、この小説はその中間の世界がよく描かれていてすごく、すごくおもしろかった!

 

都会から田舎へ戻って家庭を持った友人宅に毎年遊びに行っている人が、だんだん軽く扱われるようになっていくのだけど、主人公はその状況についてひたすら自己弁護を脳内で繰り返します。その自己弁護の中に、日本語の洗練・純粋・素朴・粗野のグラデーション問題が盛り込まれている。この本に粗野な人は出てきません。そういう嫌なことはまったく起こらない。ただ中間にある微妙なことばかりが起こる。主人公の頭の中で。
冒頭から主人公は夜遅く到着してもいいやという気やすさで友人宅を訪ねており、迎える側としては初心を失った雑な人になんでリッツ・カールトンの従業員のようなメンタルで接しなければいけないのかさっぱり意味が分からない。従順でないというだけでじゅうぶん友人として親切な対応をしている。サービスを求めすぎるクレーマーの構図の設定がとくかく絶妙です。

そして主人公は最後の一行で共通の友人を引っぱり出し、「でも友人の〇〇もあいつのこと嫌だって言ってたし」と、自分の意見はひとりのものではないと書き残さずにいられない。都会へ出ていく人間の幼稚さをうまく書いていてすごくおもしろい。

この小説は「大人になるって、なんだろう」という話でもある。


同じ作家の書いた「野菊の墓」を読んだとき、わたしは主人公が周囲の人に対して従順であることや、明らかに懐柔する側の人間たちが悪魔的な状況の中でも、悪魔が懺悔をしたら許すという展開に驚いたのだけど、この作家の思考には「従順さ」というものがいつも重要テーマとしてあるのかもしれない。

 

さて。

この物語は新潟県の柏崎が舞台で、おもてなしに長岡の粽(ちまき)が登場します。きな粉をつけて食べる、笹の葉で包んだ三角ちまき!(たぶん県民しか知らない)
これは、実に素朴なおいしさとはこういうことよ!という味がする代物で、大好きなこのおやつが序盤に登場したせいで、わたしはその味を褒める主人公に対して好意的な視点で物語を読み進めることになってしまいました。
ところが読み進めるうちに内容がドラマ「セックス・アンド・ザ・シティ」シーズン6のエピソード9「女の特権、シューズマジック」ととてもよく似ていることに気づき(育児中の友人のホームパーティで主人公が高級ブランドの靴をなくす)、この主人公はキャリーかと思ったら最後のオチにも納得!
この物語は「もしもキャリー・ブラッドショーの気持ちを "野菊の墓" の作家・ 伊藤左千夫が書いたら…」というコントのような、わたしのなかで時代逆転パロディのように読める話で、扱いにくいけどなにげに普遍的なテーマであることにあらためて気づきました。

 

浜菊

浜菊

 


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