うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

理論武装や過去の失敗の合理化ができてしまう人のつらさと、できない人のつらさ(「シッダールタ」読書会を経て)

先日関西で開催したヘルマン・ヘッセ「シッダールタ」の読書会で、他人から見たら失敗かもしれないことも、当人が身をもって経験して消化して合理化するところまでやらないと気が済まないことがあるという局面について掘り下げる時間がありました。
この小説は主人公とその友人の悟りへの道への向き合いかたが対照的に描かれており、主人公は理論武装に長けた人物で最終的には過去の失敗の合理化もできる。それとは対照的に、友人は一度信じたら「◯◯に決まっているじゃないか」という行動原理で動ける反面、そこに不安がよぎったときには他者に答えを求める。


どちらが素直で純粋か。
小説には書かれていなかった、主人公ではない友人側の人生に思いを寄せながら、両者の「それはそれでつらい」を複数名で同時に想像するのはとても濃厚な思索の時間で、「みんなのなかに、シッダールタもゴーヴィンダもいるんだな…」と思う瞬間が何度もありました。
よく「自分の中の天使と悪魔が…」などという表現をしますが、日常における迷いは善と悪がはっきりしたものではなくて、たとえばこんな対比です。

 


 自分を信じることができることが強さなのか、他人を信じることができることが強さなのか

 


わたしはよくこのような迷いかたをします。
悩むというよりも「こういうときって、どっちなんじゃろ…」という葛藤。もう、誰か決めてくれればいいのにっ! という投げやりな気分にもなったりする。そりゃ本屋が自己啓発書だらけにもなるわけです。


今回複数の人とひとつの物語について話すなかで得た力は、なにかに立ち向かうスタンスについて「それはそれでつらい」という心情を想像する筋肉の繊維が細かく、そして束になることで太くできたこと。ひとりで振り返るにはつらいことも、こんなふうに壁打ちの「壁」みたいなのがあると、ぶつけてみることができる。
日常には善悪では片付かないジャッジがいっぱい。そんなに簡単に自己肯定なんてできないってことを他者と確認する時間がこんなに自分の心を満たしてくれるなんて。安易にわかりやすい思想をつかもうとしない力って、言葉にできないけれど確実にある力なんだよな…と思いながら帰ってきました。

 

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