うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

或阿呆の一生 芥川龍之介 著

今年は夏に3か月くらいかけて島崎藤村の「新生」を読んで、その後もしばらく考えをまとめられず、「新生」について言及されている芥川龍之介のこの本を読みました。これが遺作なのだそうです。
日付のない日記のような感じで、数行で終わるトピックの連なりが20代頃からの一生を振り返るダイジェストのようになっています。後半は確実に死へ向かっていて、死の決意の予感が高まってくるところで島崎藤村の「新生」への言及が登場します。

芥川龍之介はすでに社会や家制度の中でプレッシャーが限界に達しており、姉の夫の自殺がとどめをさしたようです。自分の達している状況を以下のように書いています。

精神的破産

破産という言葉に、金銭的にはまだいけるかもしれないけれど、先に精神の資源が尽きたと。その前の章の最後の一文でも以下のように書かれています。

しみじみ生活的宦官に生まれた彼自身を軽蔑せずにゐられなかった。

芥川龍之介島崎藤村も、親族からの支え(お金)の要請に苦しんでいたところが共通点と言えば共通点。芥川龍之介は「新生」についてたった30字ほど言及しているだけなのですが、そのなかにある「老獪な偽善者」という部分が後にも話題になったようです。


ここで「老獪(ろうかい)」という言葉を使ったのは、書く力を黒魔術として使ってまで自分は物書きとしてお金を作って生きる気はないという意志のように、わたしは読み取りました。
夏目漱石も「道草」という小説で養父からの金の無心への苦しみを書いているけれど、その種の追い詰められ方をして「それでも、生きるのだ」という方向へ向かうために内側から立ち上がってくるものは人それぞれ。わたしは「新生」をそういうふうにも読んでいたので、芥川龍之介の残した「老獪な偽善者」という言葉自体にはそんなに悪意を感じなかったのだけど、芥川龍之介島崎藤村をそれでも持ち上げている評論家や出版社の人間がいることが苦しかったんじゃないだろうか。

 

制作慾だけあって生活慾を失ってしまったことを大学生と語っている『倦怠』という章はまさに「中年の危機」という感じで、こういうやり場のない不安を言葉にするのがほんとうにうまくて、そしてちゃっかり妻以外の人との恋愛も充実していて、モテたのねぇ…という内容です。
この小説のような遺書的自伝には「先生」として夏目漱石、「先輩」として谷崎潤一郎が登場しているのですが、序盤に登場する谷崎潤一郎の無造作な返事をきっかけに、一瞬だけ深刻すぎない気持ちになっています。そういうやさしい気持ちの瞬間を回想して書ける人にとって、島崎藤村の黒魔術(物語を創る力)の使いかたは同業者として耐え難いものがあったのでしょう。


この本は、どんな売れていても人気があっても死に惹かれる、そういう気持ちが書かれています。いっけん絶望的なのだけど「こ、この感じをこの少ない文字数で書いちゃうなんて、頭よすぎる…」という表現がたくさん登場して、感覚がいつも溢れていて大変そうなのがよくわかる。絶望的なことを書いている文章を読んでいても、そんなに嫌な感じがしない。テンポの制御や匂わせの抑制に気品がある。

こういう人が島崎藤村を許せないのは至極納得という気がします。(結果としてこの本は最後に撃ったバズーカ砲のようになったけれど)

ダサくない生きかたを貫くのって大変。

 

或阿呆の一生

或阿呆の一生