友人の薦めで読みました。これを読んで心を浄化するとよいとのことで、すぐに読みました。
いわばタイトルからして出オチのような悲しい話なのですが、そこへ至るまでの描写がどうにもすばらしく、ただ泣けるとかそういう小説ではありませんでした。なるほど。これはすごい。
え? これ千葉の話だよね? 松戸とか市川とか矢切の渡しとか、この人たちさっきまで千葉の話してたよね? というくらい、少年と少女を結びつける世界が至上の別世界であることがひしひしと伝わってくる。意識の世界というものが確実にあることを教えてくれる。できすぎた神秘の物語や精神世界の本を読むよりも、ものすごいところへ連れていかれる。「あるヨギの自叙伝」よりも「ある千葉の少年少女の話」がこんなに残るものか。もうこれは畏怖のレベル。
心の微細な動きが日々の段取りに織り込んで描かれ、現実社会の情報もしっかり提供されているのに、純粋世界の視点へ連れて行かれたままの素敵な世界。当時のその土地の人間関係や干渉、男女の立場の違いも説明され、苦しみとか悲しみとか悔しみとかやるせなさとか、ふて腐れて死んでしまいたくなるようなことがてんこ盛りなのに、うまくいかないってわかっているのに清い気持ちで読まされる。
そして最後まで読んで、まったく別の考えも起こりました。個人的な憂さ晴らしや制裁的いじめをする人たちの無邪気さまで丁寧に描かれているところが、この作品を長く読まれる普遍的なものにしている。この小説はそこがすごい。
幼い頃から面倒を見てきた人間に対して行われる、こいつならいいだろ…、これくらいならいいだろ…、という小さな見下しの集積はまさにカルマ。「行為」が「業」であることをありありと見せていく。
こういう「小さな見下し」は日常の中のあちこちにあって、それをこの物語の中の人たちはみんな頭ではわかっていて、心根まで悪魔ってわけじゃない。加害者側になった人たちは、「小さな見下し」を続けてはいけないタイミングを見過ごした。
これはお盆に「東京の人間は帰れ。迷惑だ」と、地方の一部の人が貼り紙をした行動原理と地続き。貼り紙をする人は恐ろしいけれど、その人の中にはそれを正義と思わせる過去の物語があって、その論理を組み立てる背景は現実にあったもので、絶対ないものではないからそういうことが起こる。これもまた、「小さな見下し」を続けてはいけないタイミングの見過ごしじゃないだろうか。
この物語は、心の世界は広いけれど、この身体を纏う世界は狭かったという現実のありようを教えてくれる。読みながらずっと「この話は夏目漱石の虞美人草と三四郎の手前にある物語じゃないか」と、そんなことを思っていました。そうしたら、ほんとうにそうでした。
野菊の墓では、女性の立場をこんなふうに描きます。
民さんが気の強い人ならきっと自殺をしたのだけれど、温和しい人だけにそれも出来なかったのだ。
そんな民さんの延長に、気の強い「虞美人草」の藤尾がいて、そして、心を通じ合わせた同世代の異性(三四郎)がいても自我をねじ伏せて年上の男性のもとへ嫁いでいく美禰子がいる。当時の夏目漱石の小説は民子さんを成仏させる方法について模索した流れから生まれているのではないだろうか。
「おとなしい」を「温和しい」と書いたこの時代のティーンの恋を、主人公は回想しながら「卵的の恋」という。
この小説を読んでいると、ほんとうに浄化される。だって心の美しい若い男女が、こんな会話をするのだもの。
「ほんとに民子さん、きょうというきょうは極楽の様な日ですねイ」
顔から頸から汗を拭いた跡のつやつやしさ、今更に民子の横顔を見た。
「そうですねイ、わたし何だか夢の様な気がするの。今朝家を出る時はほんとに極りが悪くて……嫂さんには変な眼つきで視られる、お増には冷かされる、私はのぼせてしまいました。政夫さんは平気でいるから憎らしかったわ」
この "ねイ" の調子に頬がゆるむ。大自然の中で、淫靡さゼロ! 明るい農村にもほどがある。
民子さんが "ねイ" で返した時には、ズコーッと心の中でスライディングしちゃった。
この物語は秋に読むと最高に浸れます。
- 作者:左千夫, 伊藤
- 発売日: 1955/10/27
- メディア: 文庫