うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

アーモンド ソン・ウォンピョン著 矢島暁子(翻訳)

文字を目で追っているのに、まるで映画やドラマを観るようなスピード感。著者は映画監督・シナリオ作家だそうで、またかと思いました。
ここ数年の間に読んだ、いっきにその世界へ連れて行かれてまったく迷子になることのない本には、書き手が映画監督という特徴があったから。具体的には『三つ編み』『最初の悪い男』『永い言い訳』。


どうしてそうなのかはわからないのだけど、特に書店のシーンは棚や床の色・匂いまで感じさせる文章で、上の階のパン屋も味の想像がしやすくて、治安の悪そうな場所へも感覚的に違和感なく移動できる。登場人物がどんな雰囲気の場所にいるかいつの間にかインプットされていて、細かいことはどうでもいいと思える。こういうストレスのなさは、ただの読みやすさとも違う。

 

「人間を掘り下げたい」という視点が深くそこにあることが伝わってくるから、細かいことはどうでもいいと思えたのかもしれない。
巻末の以下の部分を読んで、なるほどと思いました。

 毎日毎日、子どもが生まれている。すべての可能性が開かれている、祝福されるべき子どもたちだ。でも、彼らのうちの誰かは社会の落伍者となり、誰かは偉くなって人に命令する立場になったとしても心はねじ曲がった人になるかもしれない。あまり多くはないかもしれないけれど、与えられた条件を克服して、感動を与える人に成長することもある。
 ちょっとありきたりな結論かもしれない。でも私は、人間を人間にするのも、怪物にするのも愛だと思うようになった。そんな話を書いてみたかった。
(巻末の作者の言葉より)

最後まで小説を読んだ後にこの文章を読んで、まるで小津安二郎監督のようだと思いました。


上記と全く同じようなことを、『早春』(1956年)で小津監督も池部良に言わせています。まだ経済的に不安なのに奥さんが妊娠したという同僚(高橋貞二)が、ちゃんとした人間に育てられるかわからない、こんな気持ちで子どもを持っていいものかと不安がっているときに、以下のように言います。

そりゃあ誰にだって分かりゃしないよ。でもそん中から太閤さんが生まれたり、マルクスが出たりするんだ

人と出会ってしまって、そこから始まるものがあるということをこの映画の中で主人公(池部良)は存分に良くも悪くも味わっていく、『早春』はそういう映画。子を亡くした主人公が最後にこうやって同僚を励ましながら生への肯定意識を示す、その場面がすごくいい。
この映画のよさと全く同じものを、小説『アーモンド』の世界にも感じました。

 

 

小説の中で著者は、愛とは ”かわいさの発見” であると登場人物に言わせているところもすごく好きです。わたしも常日頃、善悪の二元を越えようとするときにはチャームくらいしか身体レベルに落とし込める判断基準がないと思っているから。せめて、人間をかわいいと思える人間でいたい。 

 


━━ と、ここまでは重くない感想。
わたしはこの物語の序盤を読みながら、3年前に川崎市で起きた登戸通り魔事件を思い出しました。訳者のあとがきがこの事件と同時期に書かれているので、この小説のほうがずいぶん先に書かれています。

国は違うのに、現実社会の問題が重なっている。これは、ここ数年わたしが韓国の小説を読みたくなっている理由でもあり、できればちょっと離れている前提で見たい。でもそこで起こっていることは日本とそっくり。
母国語で書かれた小説だと作家の忖度の背景まで読み取れそうになることがあって、邪推で疲れてしまう。強い語調であれば、それはそれでイキっているように感じられてしまう。外国の小説だとそれがなく読める。いま、いちばんちょうどよい距離感なのかもしれません。

 

アーモンド

アーモンド