先日、ある本を読んでいたら、ほどよく強烈なフレーズに出会いました。
日本語にすると、こうです。(元は英文でした)
「自我が行動や経験に介入してそれを汚染する」
いい意味でおバカな状態であればそのまま感じられることを、自分で汚す。
何かを体験しているときに「これは自分にとってどういう意味があるか」「どんな価値があるか」を意識して、純粋な誠実さを汚す。
この不誠実を “スマート” と評価する土台が年々育ってしまった昨今は、こまっしゃくれた子役みたいな人格がそのまま成人しているだけなのに、まるでそれが賢いかのよう。
この仕組みから距離を置きたい。
(置きたいの!)
教訓や啓発を期待する
少し前に、これと似たようなツッコミを自分自身に向ける機会がありました。
先日参加した読書会で、こんなことがありました。
その日はアンデルセンの『絵のない絵本』を読んで集まっていました。
この本について、感想としてこんなことを話す人がいました。
一冊の本を読みながら、
何かの教訓や気づきへ導かれることを
期待している自分の性質に気がついた
アンデルセンの『絵のない絵本』は、この期待をかわいく裏切る本で、「この本はどこに向かっているんだろう」「最後に何か大きなまとめや結論があるんじゃないか」と期待する損得根性を試されます。
よくできたコンテンツを喜んでしまう自分
伏線回収、物語の構造、章立て、登場人物の配置がパズルのように意味を持ち、それを読み解くことで達成感を得ることを期待する。
物語との関わり方が「体験」から「分析」へとシフトしすぎています。
日常のモードを読書にも持ち込んでしまっているんですよね。
凡人の物語のほうが面白いのにね。
「死と生を含めた人生」に分析的であることに疲れてきた
生や死についても同様でした。
この本を読んでいると、老衰や不慮の死が特別なドラマではなく、人生の一部として描かれ、「他者の人生をただ見つめる」という感覚になります。
33話ある物語の中に、実は求めていたのかもしれない弟か妹が生まれてくる、ある日の子供の話があります。特に喜ばしいこととして扱われるのではなく、ただそれが起こった日の会話が書かれていています。
そうだった。
実際家族って、そうだった。
それが実際の人生だった。
それを汚染というインドの人のおもしろさ
冒頭に書いた「自我が行動や経験に介入してそれを汚染する」というのは元は英文で、以下のように書かれていました。
the ego tries to step in and pollute actions and experiences.
エゴを客観的に観ることについて解説しているヨガの本(参考)にあったフレーズです。
世の中の情報が分析的になっていけばいくほど、汚れていく何か。
こういう話を、いろんな人とできるといいよね。
分析的な話をするなら ChatAI と変わらないもんね。
こういう話ができる人と出会えるのが、ヨガのいいところよね。
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12月7日(日)に、関西・神戸でも開催予定です。
現在内容を準備中です。後日このブログでご案内いたします。
のびの〜び、いきましょう♪