うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

小津安二郎に憑かれた男 -美術監督・下河原友雄の生と死- 永井健児 著

少し前に、谷崎潤一郎の小説を映画化した『卍』を観ました。

その中で使われているレターセットや紙製品の美しさに魅せられ、映画の美術や小道具が気になり美術監督の名前でこの本にたどり着きました。

 

読んでみたらとても興味深い本で、著者は美術監督・下河原友雄さんの助手。

今でいう学生インターンのような立場からはじまり、長く関わられた過去があります。ご自身はその後どっぷり映画の道へ進むのではなく、店舗デザインの仕事に就かれています。

当時の映画業界は戦後で物資が少なかったり経営が微妙で支払いが滞りがちだったり、そういう環境の振り返りとともに、下河原友雄さんと映画界の人々の交流が語られています。

 

 

タイトルの通り、下河原さんは小津監督作品の何本かで美術監督をされており、関わった本数は少ないながら、その美学に心酔し交流を重ねたエピソードが多く書かれていました。

ご自身が立ち上げた劇団「アトリエ座」に水森亜土さんが入ってからも、さらにユニークな交流があったりして。こんなふうに関係していたんだ……、と初めて知ることも多くありました。

 

渋谷にあったという恋文横丁の話は、読んでびっくりな戦後文化史です。

恋文横丁は今の道玄坂と東急本店通りとの角、ファッションビル「109」のちょうど裏側に当たる路地で、この当時、バラック建ての小さな飲食店や衣料品店などがひしめき合っていた。

 この路地の中に、日本の女たちが米兵相手に出す恋文で代筆して料金を取る店があった。作家・丹羽文雄がこの店の話を中心に『恋文』と題して新聞に連載小説を発表し、さらに日活で映画化されてから急に有名になってこの名がついた。

(下河原の転身 より)

 

小津監督の映画を観ていると「リッチだなぁ」と思う場面が多いのですが、相当な気合いとこだわりで成り立っていたことがわかります。

戦後五年目とはいえまだ物資不足が続いており、例えば材木は、戦災焼失家屋の復興用が優先配給されていて、撮影所のセットに使う材木なども申請して許可が出てからようやく購入出来る状態だったのである。そんなわけで、梱包に使う板類と言ってもなかなか手に入らず、もちろんダンボール箱などという気のきいた品もまったくといってよい程なかった。

(小津への失望 より)

著者は小津監督の映画『宗方姉妹』の美術助手で、バーカウンターの近くに置く道具を苦労して手配して事前に寸法も報告していたのに、当日になって(カウンターと重なって見えた時に目立たないから)もう少し大きいのを探し直してと言われて反発した出来事をこの本の中で語っています。

これは現代の価値観だとパワハラ体質と言われる出来事で、まだ20代の著者は反発するのですが、そこで美術監督の下河原さんは「(小津)先生が熱心だからだ」と言い、従わせようとします。

このときの会話が興味深いです。

「── 熱心さはわかりますが、OKになっていたんです。寸法もちゃんと書き込んであるんです。それを、いくら名監督だからって……

 突然彼が声を荒らげた。

「それはなあ、キミに軍隊の経験がないからだ。軍隊は、上官の命令に絶対服従だったんだ。たとえいくぶん非合理ではあっても、上官の希望であり、命令じゃあないか」

 あれ程軍隊を嫌いだと言っていた本人の口から軍人の例が出てきたのが意外だったし、私は強い嫌悪を感じた。(だから戦争に負けたんです。みじめな結果になったんです。第一、軍隊と撮影所の仕事を同じ次元で考えるなんてナンセンスです)、喉元まで出てきている言葉を、私はけんめいに抑えた。

(電蓄と反抗 より)

理由はこれだけではありませんが、著者は映画美術の仕事に失望していきます。

 

そのときの気持ちを、こんなふうに書かれています。

 秀れた映画を作りそうな監督は美術の仕事の領域に干渉してくるし、デザインを自由にさせてくれるような監督の作品はくだらん娯楽映画ばかりであるという現実。それを前にして私は、映画の仕事を本気でやるには監督にならなければ駄目だという思いを一層強くしていた。しかし、助監督部には相変わらず空席がなかった。さらに休学中の学校も休学の延期が認められず、中退せざるをを得なくなった。

(小津との再会 より)

著者は小津監督にも気に入られるのですが、「美」よりも設定・つじつまが合うことを重視する人なので、衝突します。

 

 

わたしはこの本にたどり着いたきっかけが、増村保造監督の『卍』でした。

巻末のリストを見たら、同じ増村監督の『最高殊勲夫人』や、今村正監督の『砂糖菓子が壊れるとき』など、建物の内装が印象深い映画がありました。

テレビが普及する前の日本映画は、いま観ると “娯楽も芸術も文化も一手に背負っている” くらいのエネルギーが注がれていて、ものすごく濃く感じます。

Youtubeも数十年後には「あの時代は一般人の中からすごいクリエイターが生まれていた」と語られるのでしょう。

 

 

自分の判断で伝えたいことがある人と、その人の発するメッセージと力に魅せられフルコミットする人と、評論する視点を命綱のようにして周縁化ぎりぎりのところで絡み続ける人。

時代と世代差と軍隊経験が絡み合って、複雑な人間模様が繰り広げられています。

現代の感覚で読むと踏み込み過ぎな人間関係に見えるけれど、昭和の職場のファミリー感って、こんな感じだったのよね。