先日、わたしのブログを長く読んでくれている人から「最近のうちこさん、オープンになってる感じがする」といわれました。白状します。これはまぎれもなくミランダ・ジュライ効果です。冬に読んだ「あなたを選んでくれるもの」「いちばんここに似合う人」の二冊が、人がデコボコのまま存在していてもよい理由を想像のはるか上をゆくおもしろさで見せてくれたから。そこから、わたしのなかで壮大な断捨離が始まりました。
こんな瞬間に差別感情を抱く自分は、こんなときに気のきいた準備をすることすら想像していなかった自分は、そんなふうに他人からあたたかい気持ちを向けてもらえる資格などないのだからどうかこちらに目を向けないで。仕事も納税もできるだけ貢献しているつもり。だから、どうか "わたし" を見ないで。そんなふうに考える性質というのは決して文章になどできないものだと思っていたのだけど、してる人見つけたーーー! という感動がわたしのなにかを開いたのでした。いやここは、"啓かれた" か。やばいな。崇拝しはじめてる。でもミランダ・ジュライはいつまでも友だちとして崇拝させてくれる。なんたって、おしゃれなんだもの。
この「最初の悪い男」で、ミランダ・ジュライは体重の感覚をとてもじょうずに扱います。
いつもいつもこの家でいちばん重い人間でいることに、わたしは疲れはてていた。
こんな吐露が出てくる場面があるのですが、粋とかうまいとかそういうレベルではない展開でこの一行が差し込まれます。独身ひとり暮らしの女性が長らく直面してきた、そして今後も直面し続けていくつらさから逃げてきた経緯も含めて、こんな一行ってあるか! というところで出てくる。この一行にたどり着く頃には、わたしに似た多くの読者がかなり今よりすてきな心の状態になっているんじゃないかな。
なんでそういうとこ見落とさずに覚えていられるの!? という記憶力を有している人の書くことはどんどんこちらの想像を超えていきます。心の動きの描写の絶妙っぷりはその前に読んだ二冊で知っていたから今さら驚きはしないのだけど、自分の存在そのものにデフォルトで失望しているとみなすジャッジの瞬間を書くのが抜群にうまい。とくに前半のモノローグがいい。主人公は
ヒステリー球が消え去ってみると、それまで気がつかなった体のほかの部分に神経が向くようになった。わたしの体は硬くてぎくしゃくしていて、入っていて楽しい容れ物ではなかった。今まで気がつかなかったのは、ほかに比べる体がなかったからだ。
という。
わたしはこの小説で「ヒステリー球」というものを知りました。
そして
わたしの人生、今が底なんだろうか、それともまだまだ落ちていくんだろうか。それが問題だった。何とかしなければならない。
こんなことを主人公が思っている前後のできごとは、本を電車の中で開きながら「隣の人がいまわたしが読んでいるページを絶対にちらとでも見ませんように」とヒヤヒヤするようなものばかり。やばい文字列が毎ページ登場する。この主人公の妄想の連続で読み進めるのがしんどくなったあとの展開がすごいのだけど、それは読む人のお楽しみ。
わたしも他人がなんでこんなふうに生活するのだろう、なんて普段はいちいち考えないほうだけど、この物語の中で主人公が
生まれてはじめて、人がなぜテレビを観るのかが理解できた。
という場面では、どうしようかと思った。どうしようって、テレビを買おうかと思った。こんなにすごい描写ってあるだろうか…という展開がこの後に待っていて、この主人公が泣くという行為の強度が驚く形で示される。
口を大きく四角く開き、涙がその中にだらだら流れこんだ。
ほんとうにつらいときの筋肉の動きも、コントロール外に放たれた体液の制御も、最小限の文字数で寸分間違いなく突きつけてくる。泣くという行為は、主体的な行為ではない。だって涙はどんどん流れ込んできたりするのだから。こんな機能を与えたもうたのは誰? 神?
いや。
このあとのミランダ・ジュライの無神論はクールすぎて昇天しそう。
でも神々なんて本当はいない。呪いを解くたった一つの方法は、呪いを解くことだ。
人生には、こんなふうに無神論者を憑依させなければいけない瞬間がある。あるんだよね!
ミランダ・ジュライはどこまでもエンタメのプロだなと思う。ファッションの描写も書体(フォント)の扱いも完璧。書体を見て、その書体のありようによって泣いたのなんて生まれて初めての体験。これは劇的。この小説は生まれて初めての感覚だらけ。
「いちばんここに似合う人」という短編集に、ついうっかり軽いチャチャチャのリズムを刻んでしまう場面があったけれど、この小説でも音楽がすごく効果的。わたしはこの歌の場面がいちばん好き。
わたしたちは驚いて、ユニゾンで一段と声を張りあげた。最後、やめどきがわからずにぎこちない終わり方になったらどうしようと心配したけれど、ハミングはだんだん小さくなって、自然にやんだ。まるで声が自分から去っていったように。列車のように。
この主人公は、些細な日常の瞬間にも「ぎこちない終わり方になったらどうしよう」なんていちいち心配をしている人。ほんとうに、いちいち。ばかみたい。わたしみたいに、ばかみたい。いま転記しながらまた涙が出てきそう。勝手に。
いちおう最後にアラートも添えておこうと思います。いますごく、頭蓋骨の中が筋肉痛です。こんなに生きてる心地のすることってなかなかないわというくらい。こんなにニクいタイトルのつけかたは、かつてみたことがない。