うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

キッチン 吉本ばなな 著

リアルタイムで読んだ記憶はしっかりあるのだけど、とはいえそれは30年以上前。再読といっても再読じゃないくらい、初めての感覚で読みました。

本には『キッチン』『満月 ━ キッチン2』と、『ムーンライト・シャドウ』という短編が収録されていて、『ムーンライト・シャドウ』は全く別のお話なのだけど、大切な人を失ったことのショックによって自分は狂っているのかもしれないと思う感じが『キッチン』の登場人物たちと似ていました。

 

わたしは10代の頃に読んだ時に感じた雰囲気と冷蔵庫の存在感、えり子さんの印象を少し記憶していて、いまこうして読んでみると、他人に対する好き嫌いの感情の存在を肯定する文章に触れたのが初めてだった、そんな反応の記憶が解凍されました。

愚痴でも被害者の弁でもない書き方で、口に出したら怒られそうなこの複雑な感情の存在を示す方法って、あるんだ! という新しさ。
今となっては一般人のブログでも悪感情をスピリチュアルな色で包んだ表現を見ることが珍しくなくなったけれど、そのマインドの蓋をチラッと最初に開けたのはこの作品じゃないか。そんなことを思うほど、何か分厚い扉が開いた瞬間を再び目撃した気分になりました。

 

 

「そういうものなのだ」ではなく「そういうふうにできている」という言いかたをされると、そこに神の恩寵があるように感じられてくる。こう信じたいのだからそうさせてくれろという意思表明。自分の運命はだからこんなふうに一般的ではないのだ、という人々がたくさん登場する、そういうこともある世界。
少し前にわたしが連続して観ていた、昭和の小津映画の中の人たちと真逆の人ばかりが登場します。これは救い。まぎれもなく救い。多くの人が、こういう世界を待っていた。わたしも時代の移り変わりを語れる年齢になりました。

 

 

この移り変わりの中間を、精神の一時停止を肯定してくれる物語を、みんな心のどこかで待ってたんですよね。
ずるくなることと強くなることのトレード・オフの中間にある純粋さを拾い出して見せながら、”いやらしく大人になること” と “生きやすさ” もまたセットである現実を見せ、純粋さを持ったまま大人になるって、可能なの? という壮大すぎる問いに、登場人物は少ないのにいろんな角度から球が返ってくる。そうこうしているうちに、なんだか癒えている。

 


まあそれにしても、心の火が消えそうな時のどうしようもなさと、食べ物を目の前にすれば消化の火がつく身体の正直さをこんなふうに書くなんて。

 人は状況や外からの力に屈するんじゃない、内から負けがこんでくるんだわ。と心の底から私は思った。この無力感、今、まさに目の前で終わらせたくないなにかが終わろうとしているのに、少しもあせったり悲しくなったりできない。どんよりと暗いだけだ。
 どうか、もっと明るい光や花のあるところでゆっくりと考えさせてほしいと思う。でも、その時はきっともう遅い。
 やがてカツ丼がきた。

ここからの、そういうふうにできているかのような展開がたまらない。
この作品は海外でも人気だというけれど、この「カツ丼」の文字列のパワーは、他の国ではどういうふうに訳されているのだろう。

 


この小説が出版されたのは1988年。
わたしの母は、この小説がヒットしてからというもの、吉本ばななの新刊を買っては読むということをしばらく続けてくれていました。おかげで、わたしは家にいながらにして、この作家の本にすぐに手を出すことができていました。30年前かぁ。(遠い目)
その頃のわたしは、それはもう心ばかりが忙しい思春期ガール真っ只中。受験も就職もその後もずっと生存競争が続く中で(その頃は能天気に受験だけで済むと思っていたけど)、当時こういう本がすぐに家の本棚に補充されたことにとても感謝しています。
同時に、こういう物語がわたしたち親子二代のみならず、世界中で猛烈な救いになっているというのはどういうことだろう、とも思います。


えり子さんが、こんなことを言う場面があります。

 男のくせに私、めちゃめちゃ泣いちゃってたから、くそ寒いのにタクシーに乗れないのよ。男ってもういやだってその時、初めて思ったのかもね。

この小説は、世界中でまだまだこれからも読まれていくんだろうな。
人間は永遠にどこまでも複雑。自分にとってのカツ丼的なものって、なんだろう。

そんなことを考えました。

 

 

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