わたしはよくインドの古い書物を読んでいるのですが、たまにおかしなものを見つけて「ああやっぱりインド人は頭がいい。おもしろいわ」と思ってほかの教えも読む、そんな生活もう何年も続いています。
先日、ヨガクラスの冒頭の説明でつい本題から逸れたことがありました。その時は脱線後の話のほうが楽しげに聞いてもらえたようでした。
その日はインドの古い書物にある「睡眠」についての記述を元に話をしたのですが、目を閉じるといえば……と思い出したことがあって、こんなのもあるんですよと脱線しました。
これはわたしが大好きな説明なのですが、4〜5世紀に残された、ヨーガの理論部門を担うといわれる教義『サーンキヤ・カーリカー』には、どさくさに紛れてこんなのがあります。
それは「見えないもの・存在するけど認識されないときのパターン」をリストアップしたもので、遠すぎて見えないとか、近すぎて見えないとか、障害物があって見えないとか、そういうふうに8種書かれています。
そして、その「近すぎて見えない」の具体例に
まぶた
と書いてあったりします。
第7番に注釈者(ガウダパーダという人物)がのちに「まぶた」という例を加えたことで、さらにおもしろくなっちゃったケース。
その日はもうひとつ紹介しました。
こういう教えがあれば「シルバー・シート」も必要ないし、「老害」という言葉が生まれることもない。世代が争わずにうまくやっていける教えがあるんです、という話をしました。
元ネタは紀元前2〜紀元後2世紀に残されたといわれている『マヌ法典』第2章120で、以下のように書かれています。
年寄りがやって来ると若者の生気は上に抜けてしまう。起立と挨拶によってそれらを取り戻す。
(東洋文庫 渡瀬信之 訳注)
この節のあとには挨拶の重要性、年寄りに仕えることで得られることの教えが続きます。
この部分は「修行」について書かれているのだけど、さまざまな立場の人に視点が置いかれていて、いまふうの言い方をすると、上から目線だけじゃない教え。
こういう座布団三枚クラスのものは500本に1本くらいのペースなので、見つけようと思って読むと大変です。こつこつ真面目に勉強をしていると、モーレツに不真面目としか思えないご褒美が突如ドーンとあらわれる。
マヌ法典って、日本じゃ弥生時代ですからね。弥生時代で、すでにこのセンスですよ。どうですか。ぴんとこないくらい昔!
『マヌ法典』と同時代の『バガヴァッド・ギーター』の第11章のはじめの数節も、えええええここまでさんざん説法させといて、そう言っておいてから、そう来る〜? で、えー! いいのぉぉぉぉ〜? まさに神対応?! いやむしろここはアルジュナが乗せ上手なのか。どっちーーー!!! という展開が、何度読んでもおもしろい。
なのでね、肩に力を入れて構えるのはもったいない。
いえいいえ〜い♪
わたしにインド思想を教えてくれた哲学クラスの先生も、音楽が鳴ると歌って踊っていたなぁ。最初は驚きましたが、じきに慣れました。
ちなみにインドのこの種の思考の爆発的なおもしろさを教えてくれたのは、道で知り合った青年たちとの会話でした。わたしは出だしがストリートなので、威厳が出ないの(笑)。