物語にからくりがあって、先が気になってどんどん読まされる。独独のテンポでぐいぐい連れて行かれて、ゆっくり読みたいのにそうもいかない。あとで著者がもともと映画監督の人でこれが初めての小説だと知り納得しました。場面の移り変わりが、文字だけなのに動的でおもしろいのです。
この本はインドの身分差別を知るのに、つらいけれどもよい小説です。話はインドのダリッド(不可触民)の生活描写からはじまります。人間扱いされない身分の女性の生活、マハトマ(ガンジー)の宣言やババサヘブ(アンベードカル)の改宗運動があっても現実ははこうである、という現状が女性のモノローグを通じてわかる。彼女は、こんなことを思っている。
人間はなんのまえでも平等ではない。
牛に生まれていればよかった。そうすれば敬意を払われていたのに。
旅をしながらインドの電車のホームや路上にいる人を見て、「こういう生活をしている人たちは、こんなふうに思ったりはしないのだろうか」と想像したことが書かれていてドキドキしました。
この種のジレンマに向き合うためにいろいろな本を読んで予備知識だけ貯えてきたわたしに、日本語話者には深いところまで理解するのは無理そうな「ダルマ」「義務」という言葉の意味がどすんとくる。このダルマと同一線上で自分のダルマを語れるか。どでかい問いがいきなりやってきます。
それが彼女のダルマ、義務、この世の居場所。代々母から娘へ受け継がれる生業(なりわい)。
(下線の部分は本では強調点つき)
インドで生きる個人の境遇がほかの国の個人と重なって、物語は親から仕事を受け継がれるイタリア人へバトンタッチされ…、というふうに、その後どんどん読まされる。
このイタリア人も
奇跡でも起こらないかぎり、ここから抜け出せない。
という状況の中にある。そしてまた別のものを背負っています。「しっかりした子」という設定にいつの間にか押し上げられ、家族にちゃっかり寄りかかられ、権利の主張をするタイミングをいつも見つけられない。そんな苦しみを味わったことのある人は、この境遇に自分を重ねることになる。そしてここでバトンタッチ。三人目の主人公はカナダ人。この人も「権利の主張をするタイミングをいつも見つけられない」という状況で日々を重ねている。
この人は社会に対してあまりにも戦闘的かつ猜疑心が強すぎて、ちょっとヒいてしまうくらい。自分で敵を作っているのでは? という気持ちがぬぐえないまま読まされる。でも、問題は人間関係だけではないと最後まで読み終えて気がつきます。
この物語の三つの国の主人公たちはみんな女性なのだけど、なかでも最後のカナダ人女性が強く抱えている自分のポジションに対する異常なまでの執着は、そうだ、あれと似ていると思い浮かぶものがありました。
女性アイドルが自ら坊主頭にし、動画でお詫び映像を配信したあの事件の、あの感じ。あれはわたしにとっては事件でした。自分はこういうことがありえる社会にいるんだよなぁと漠然と愕然とした事件。わたしは最後まで読んで、なぜかそのときのことを思い出しました。(「なぜか」と書いたのはこの物語のネタバレにならないようにとぼけているだけなので、読めばわかります)
この物語に登場するカナダ人女性・サラの状況はこのように語られます。
サラを襲う暴力はもっとおとなしい。それとははっきりわからない。より陰湿で、だからこそ証明するのが難しい。だが、現実に存在するものだ。
そういえばあのアイドルグループのドキュメンタリー映画のタイトルは「少女たちは傷つきながら、夢を見る」で、坊主頭事件の後にそのタイトルが付けられていることにあらためて驚きます。傷つく前提の場所を目指してきたことに気がつくのは、だいたい傷ついた後だけど、あれを傷のレベルと扱っていいのか。
日本のアイドルグループの20歳の女の子は恋をしたことで坊主頭になりましたが、この小説に登場する20歳のイタリア人女性は恋をしながらこんなことを考えています。
綱渡り芸人のように風のまま揺れている気がする。人生では往々にして、いちばん陰鬱なときと輝くときが表裏一体になる、と思う。失いながら得てもいる。
恋をしたなら、せめて「失いながら得てもいる」と思えなければ、やっていられない。
このイタリア人女性の恋人がもうとにかく最高に素敵な人で、世の中にはこういう人もいると思わせてくれるのがすごくいい。これがないとけっこうつらい。助けたい人を助けられない、インドの不可触民の夫の気持ちも忘れられない。彼が愛する妻と娘を守りながら生きることの過酷さを思うと、投げ出したくもなる気持ちが想像できるから。
著者は映画監督。映画も制作が進んでいるという。はやく映画が観たい。
- 作者:レティシア コロンバニ
- 発売日: 2019/04/18
- メディア: 単行本