先日、本をたくさん読んできた友人に「カポーティって読んだことある?」と訊いたら、「あの感じにハマって10代の終わり頃に夢中で読んだ。『夜の樹』というのがよかったのを覚えてる」と、元文学少女の返答がスラスラ返ってきて驚きました。
人の縁とは不思議なもので、こんな元少女がなぜわたしと。
10代の終わりに読んでいたのが『行け!稲中卓球部』のわたしと一緒に西川口の猥雑エリアへ出かけ「リアルにタモリ倶楽部のオープニングじゃないか〜」と口をあんぐりしながら人生のあれこれ、のっぴきならない事態を乗り越えてきた話をするのだから人間の脳は多様で、人生は豊か。
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この短編集には、いくつもの差別感情の種(タネ)が出てきます。
「あ。いま見下しの気持ちが発芽した」という瞬間がふわっと書かれていて、年長女性へ向けられる視点が鋭く、そんなところを拾ってくれるなやめておくれよと思うほど。
特に女子高生の話がナマナマしい。
昨今のコンプラ社会で「非・やさしさ」は1秒も許されない。なのに巷には高度な意地悪をする人がいて、これは一体どういうことだろう。
それが「すなおな意地悪」でないことに気づいていない人が増えると社会は物騒だ。
すなおじゃない意地悪は血が通っていないからタチが悪い。
「自分は今、なにを目障りと感じているのだろう」という、敵認定の数センチ手前で一度立ち止まって、息を殺しながら敵の正体を暴いていくような、そんなスリルがどの作品にもありました。
大人になってからも顔を出す意地悪な感情は、子供時代の自分の、あのときの見下しの感情の解凍物なんじゃないか。そんなことをずっと思っていたから、まるで答え合わせのようでした。
この作家の本のレビューで「早熟」という表現をよく目にします。ほとんどは誰かの真似で書いているのだろうけど、こういうのを早熟というの? なるほどね。
わたしはこれまで、老成と早熟の区別がついていなかったのでした。30歳くらいに見えるのが早熟で、こんなことを言うなら60歳くらいになってなきゃおかしいのが老成。って感じなのかしら。だとすると、この作家の書くものは早熟というより「経験豊富すぎないか」という印象。何十人もの前世の記憶を持ったままの人みたい。
気分的な感想を少し前に書きました。